2.古典力学から量子力学へ

(1)古典力学の素晴らしさ: りんごから宇宙まで(ムービー1-5

マクロの世界にある物体の運動は,宇宙(たとえば太陽系の惑星や人工衛星)から地上のあらゆる物体(たとえば機械)の動きまで,古典力学によって正確に説明できる。(パターン1-8

古典力学はニュートンの運動法則に始まり数学的に完成されて,自然科学の模範の一つとされてきた。

その魅力は次の諸点にある。

a)まず,りんごが地に落ちる運動から銀河系の果ての動きまで,人知のスケールを超える「普遍性」を持つことである。

一見して関係がなさそうな現象でも,たった一組の法則で統一的に説明できる。また,星空の彼方で何百年・何千年の将来に起こる現象まで正確に予見する力を備えている。

b)次に,いささかの矛盾も飛躍も許さない「厳密な論理」の美しさを持っている。

c)さらに,実験精度の限界まで数値をつきつめることのできる「定量性」を持っている。

(2)自然現象は数学の言葉で語られる(ムービー1-6

自然界には法則と秩序がある。

気まぐれに起こったように見える現象でも,すべては起こるべくして起こっている。

このような自然現象とその裏に存在する自然法則を整然と論理的・定量的に記述するには,それにふさわしい言葉が必要である。

それは数学である。(パターン1-9

研究者は自然現象を実験によって測定し,その結果を数学の言葉で解析する。

そして理論を構築し,実験と比較して検証し,自然現象についての認識を深めていく。

物理学およびそれに関連する自然科学の教科書は数式で埋まっているが,その理由はここにある。

(3)自然科学における「基本法則」の意昧(ムービー1-7

数学は本来,自然現象とは直接に関係のない論理の学問である。

したがって自然科学が数学を言葉として使うためには,数学に「自然の命」を吹き込まなければならない。

それには,いくつかの「究極の仮定」を数学の言葉で前提することが必要である。

それらの「仮定」を理論的に発展させ,多くの実験事実と比較して矛盾なく一致することが確認されたとき,それは「基本法則」とよばれる。(パターン1-10

究極の基本法則の典型には,ニュートンの力学,アインシュタインの相対性理論,シュレーディンガーの波動力学などがある。

これらの理論に現れるたった1行の簡単な基本式の中には,それぞれ宇宙に存在するすべての物質に共通する秘密が含まれている。

いわば「自然現象のほとんどすべてが凝縮されている」といってよい。

これらの驚くべき底力を持つ基本法則に対して「なぜ?」と質問しても,普通の意昧での「解答」は得られない。

強いていえば,「自然はそのように作られている」というのが答といえよう。「これらの法則は普遍的に成立する」といったが,仮定であるからには限界もある。

もし実験事実と一致しない場合が発見されたら,そこではその仮定を潔く捨てて別の仮定に向かわなければならない。

古典力学がミクロの世界で大きな矛盾に遭遇して量子力学に向かったのは,そのような事情であった。

(4)ミクロの世界に踏み込んだときの挫折と戸惑い

古典力学はマクロの物体の運動をあまりにも見事に説明できたために,19世紀の終わりごろまで,すべての自然科学者は「ミクロの世界の粒子も,単にスケールが小さいだけで,マクロの物体と同様に古典力学の運動法則にそのまま従うだろう」と想像した。

ところが19世紀の終わりごろから20世紀の初頭にかけて実験技術が発展し,ミクロの世界の現象が次々と明らかになるにつれて,「電子や原子は月やりんごのようには運動しない」という事実が次第に明らかになった。

そこで科学者たちは思いがけない矛盾に直面して挫折し,戸惑い,真剣な模索を続けた。

古典力学がミクロの世界で出会った矛盾の例をいくつかあげよう。

       

(5)ミクロの世界の不思議な現象

(a)単原子固体の熱容量(ムービー1-8

古典物理学に従って,「外部からエネルギーが与えられたとき,原子の振動エネルギーは連続的に増加する」と考えると,モル熱容量は温度に関係なく一定になる。

ダイヤモンドやケイ素や多くの金属のように原子から構成されている固体1モルあたりの熱容量は,温度に関係なく一定になるはずであった。しかし実験では低温になると熱容量が下がってくる(図1-1)。

言い換えると,固体を同じlK暖めるのに,低温では高温のときに比べて少ないエネルギーを与えればよい。

アインシュタインとデバイは,「原子の振動エネルギーは不連続な値をとる」すなわち「量子化されている」と考えることにより,この温度依存性を説明した。

(b)原子の発光と吸光(ムービー2-1

ナトリウム・ランプの光をスクリーンに当てる。

途中にブンゼンバーナーを置いて炎に塩化ナトリウム水溶液を入れると,美しい炎色反応が見られる。

同時にスクリーンには炎の影が写る(図1-2)。

ところが,たとえば塩化カルシウムを炎に入れると,炎色反応は現れるがスクリーンには炎の影が写らない。

この現象は,次のように説明できる。

原子の中にある電子の運動によって,その原子は特定のエネルギー準位を持つ。

ナトリウムランプの光はNa原子が持つ準位のうち最低の二つの準位間の遷移によって起こり,そのエネルギー差に相当する可視領域の波長を持つ(第3,7章参照)。

その波長の光が低い方の準位(基底状態)にあるNa原子に当たると,その光は吸収されて原子は高い方の準位に励起される。

スクリーンに炎の影が現れるのは,炎の中に基底状態のNa原子が励起状態の原子より多く存在し光が吸収されるためである。

バーナーに見られる炎色反応は,その部分に励起状態のNa原子もかなり存在し,その波長の光を放出するために起こる。

一方,炎にCa原子を入れた場合には,Na原子の場合と同様にCa原子に固有の波長を持つ放出光が炎色反応として現れるが,Naランプからの光の波長はCa原子が持つ固有のエネルギー差と一致しないために,Naランプの光はまったく吸収されない。

したがって炎の影は現れない。

以上の観測はミクロの粒子の性質として「原子あるいは分子に吸収される光の波長はそれらの粒子に固有である」ことを示す。

さらに多くの原子から放出される光のスペクトルを観測し(パターン1-11),一定の波長を持つ何本かの輝線の組を解析すると,「原子は量子化されたエネルギー準位を持ち,放出される光の振動数はそれらの準位のエネルギー差に比例する」ことが示される(第3章参照)

ムービー1-9)。

(c)光電子放出(ムービー2-2


金属など固体の表面に,ある「しきい値」より短い波長を持つ光を当てると,電子が放出される。

この「光電子]の強度は当てた光の強度に比例し,光電子の運動エネルギーは光の強度や照射時間に関係なく光の波長で決まる。

ところが「しきい値」より長い波長の光を当てた場合には,どんなに強い光をどんなに長く当てても光電子はまったく放出されない。

この現象は,古典電磁気学で単に「光は波(電磁波)である」と考えただけでは説明できない。

アインシュタインは「振動数νを持つ光はのエネルギーを持つ光量子(フォトン)である」あるいは「光はエネルギーの塊(フォトン)として原子あるいは分子と相互作用する」と考えて,この現象を説明した(図1-3) 。

(d)固体結晶表面による電子の回折(ムービー1-10

ミクロの世界に見られる不思議な現象(ムービー1.11)には,ほかにもたくさんの例がある。特に「電子が波としてふるまう」という性質は,基礎的にも応用的にも重要である。(パターン1-12

たとえば,電子ビームを結晶の表面に当てると,干渉を起こして規則的な回折像が現れる(図1-4)(パターン1-13)。

この事実は「電子は通常は粒子として考えられているが,波動としての性質も持っている」ことを示している。

  (6)量子力学の誕生(ムービー1-12

これらの不思議な現象を統一的に説明する基本法則を求めて,多数の研究者が長年にわたって真剣な模索を続けた。

そのころの歴史は,多くの感動的な物語で彩られている(参考文献参照)。量子力学の創設に当たって,プランクはエネルギー量子の存在を初めて明らかにした。(パターン1-14

アインシュタインは上記のように振動エネルギー量子を用いて固体の熱容量を説明し,さらに固体表面から光電子が放出される現象の解釈によって光量子(フォトン)の存在を実証した。

これらの先駆的な仕事に続いて,ボーアは(パターン1-15)水素原子のスペクトルを説明し,量子論がミクロの世界の粒子の運動を決める基本法則であることを明確にした(第3章参照)。

これらの発見とそれに平行して行われた多くの実験によって,「電子・原子・分子などのミクロの粒子や光が持つエネルギー,および相互に受け渡されるエネルギーは一般に不連続量であり,ある一定値(量子 quantum)の整数倍の値だけが許される」ことが明らかになった。

量子力学は1925年に発表されたハイゼンベルク(パターン1-16)の行列力学と1926年に発表されたシュレーディンガーの波動力学により完成された。

これらの理論は,同じ内容を別の数学の言葉(前者は行列,後者は偏微分方程式)で表現したものである。 

(7)量子力学から量子化学へ(ムービー1-12

シュレーディンガーの波動力学が(パターン1-17)発表されると,直ちに原子・分子の系に広く応用され,数年のうちに量子化学の基本的な骨組は完成した。

すなわち,その翌年には水素分子の化学結合の本質に関するハイトラー・ロンドンの理論が発表され,原子価結合法および分子軌道法など分子構造論の基礎理論(第4−6章)がそれに続き,また分子の振動回転スペクトルや回折現象を解析するための基礎となる量子理論(第7章以降)も作られて,ミクロの世界の実体はその姿をはっきりと現した。

またこれらの理論の発展に促されて,分光法(第7−13章)や回折法(第9章)の実験技術も急速に発展した。量子力学が化学の発展に果たした役割は,

a)実験結果を解釈するための暗号解読の鍵を与えたこと,

b)その結果明らかになった分子の実体を,「電子の働き」を基本テーマとして明確に説明したことである。

(8)量子化学の目標:分子との対話(ムービー1-4

量子化学は,化学の現象を量子力学を基礎として解明し,未知の現象を発見し,新しい個性をもつ物質を創造することを目標としている。

そのためには,原子・分子あるいは分子集合体に見られる構造・化学結合・物性・反応などを詳しく調べる必要がある。

現代の自然科学の発展によって,われわれは様々な実験方法で「分子と対話する」ことができるようになり,ミクロの世界を直接に見ることができるようになった。

たとえば,分光学の実験では分子に光を当てて,分子から来た応答(すなわちスペクトル)を測定する。分子のスペクトルは,いわば「分子からわれわれに送られてきた手紙」である。

それは分子の言葉で書いてあるので,単に眺めただけでは理解できないが,われわれは量子力学という暗号解読のコードを持っている。

理論と計算によるスペクトルの解析を通じて,われわれは分子からのメッセージを詳細に読み取ることができる。