第10章−分子の振動
分子を構成する原子は固い棒のようなもので結ばれているのではなく,電子を媒介として結合していることを第6章までに学んだ。
電子は古典的なイメージでは柔らかな糊あるいは接着剤と考えてもよい。
その結果として,原子と原子は一種のバネで結ばれているとも考えられる。
このバネとしての性質が直接現れるのが分子の振動である。
この振動を観測し解析することは,化学結合の最も本質的な部分を調べることになる。
(パターン10-1、ムービー10-1)
1.二原子分子の振動
(パターン10-2,10-3,10-4)(ムービー10-2)
(1)二原子分子のポテンシャル曲線(パターン10-2)
二原子分子の振動については,第4章の2で水素分子について扱った。
もう一度要点を二原子分子を念頭において整理すると,以下のようになる。第4章と7章で述べたように,電子と原子核の運動は質量の違いを反映して分離できる(ボルン・オッペンハイマー近似)。
これを波動関数で表現すると,電子の座標ρと原子核の位置の関数である厳密な関数
を,座標
をある位置に固定したときの電子波動関数
と
のみの関数である波動関数
の積
と表し,両者を別々に扱ってよいということである。
この電子波動関数と,原子間の反発を表す位置エネルギーを含めた電子ハミルトニアン((4.1)と(4.2)を参照)を用いてシュレーディンガー方程式
(10.1) |
を解くことにより,原子の配置における電子のエネルギー
を得ることができる。
原子の座標を横軸にとり,それに対しての値を縦軸にプロットし,その点を結んでできた曲線がポテンシャル曲線である(例えば図4-7)。
すなわち
(10.2) |
である。
(2)振動の波動方程式とその解
振動についての古典力学の考え方は第2章で,量子力学の扱い方と結果については第4章で述べた。
再びその要点を二原子分子の伸縮運動を題材としてまとめてみる。(パターン10-3)
振動によって原子間の距離すなわち結合の長さが平衡値から微小変化する。
その量をとすると,復元力はと表される((2.6)式)。は力の定数とよばれ,化学結合の強さを反映し,バネの強さに対応する。
このフックの法則が成立するエネルギーの低いところではポテンシャル曲線は平衡点からの変位の二次曲線となる。
すなわち(10.2)式のは平衡点の近傍で
(10.3) |
と表される。
一方,伸縮運動の運動エネルギーは×(質量)×(速度)2であるから
(10.4) |
となる。
ここでは速度であり,座標
を時間で微分した量である。
すなわち
(10.5) |
である。
また,μは換算質量((3.3)式参照)であり,X‐Y分子の場合に,それぞれの質量をおよび
とすると
(10.6) |
(10.6)
として計算できる。
ここで運動量
(10.7) |
を用いると,運動エネルギーの項を
(10.8) |
と書き直すことができる。
量子力学の手法に従い,運動量を演算子
(10.9) |
で置き換えると,(10.3)と(10.8,9)式から振動運動のハミルトニアンが
(10.10) |
のように得られる。
このと,先にボルン・オッペンハイマー近似で分離した関数
の座標を
に変換してから用いると,原子の振動運動のシュレーディンガー方程式を
(10.11) |
と書くことができる。
結合の長さは有限であるから,波動関数は主にポテンシャル曲線の内側で意味があり,ではゼロに収束しなければならない。
この境界条件を入れて(10.11)式の波動方程式を解く。
その演算は本講義の水準を少し超えるので結果のみを示すことにする。
固有エネルギーは(4.23)式に示したように
(10.12) |
となる。
波動関数も厳密に導くことができるが,ここではそれを図10-1にポテンシャル曲線,振動エネルギーとともに示した。
υ = 0 の基底状態は平衡点にあるのではなく,振動数の半分の高さにあることに注意しよう。
これをゼロ点エネルギーという。
波動関数の位相が+から−,−から+に変る点(節)の数はυが大きくなるにつれ,一つずつ増える。
このふるまいは,古典力学の対象となる弦の振動が高音になるにつれ節が増えることに対比される。波動関数の2乗はその座標に存在する確率を与える。
図を見ると,υ= 0での確率分布はおおよそ±0.1Åの範囲に広がっていることが分る。
かりに分子の温度を0Kまで冷却したとしても,分子はυ = 0 の振動基底状態で一定のエネルギーと振幅を保って振動している。
これをゼロ点振動という。
(3)振動遷移の選択律(パターン10-4)
吸収・放出により遷移が実際に起こるかどうかは,第8章の(8.10)式で定義した遷移モーメントが値を持つかどうかで決まる。
双極子モーメントは分子の回転や振動,電子の運動に依存するので,それぞれの効果を数式で展開して書き直す必要がある。
振動の効果は(7.14)の第2項である。
すなわち,振動量子数υ= m とυ= n の間の吸収・放出を表す遷移モーメントは
(10.13) |
となる。
この遷移モーメントがゼロにならないためには,まず,すなわち振動の変形に伴って双極子モーメントが変化しなければならない。
さらに積分がゼロ以外の値を持つことが必要である。
υが偶数の波動関数は座標q = 0の左右で対称的であり,奇数の場合には符号が逆転し,反対称となっている。q自身も反対称の性質を持っている。
したがって,被積分関数が座標q = 0の左右で打ち消しあわないためには, mと nの偶奇性は異なっていなければならない。
(10.13)の積分を実際に計算してみると,Δυ= m − n = ±1の場合のみゼロでない値を持つことが導かれる。
すなわち,振動エネルギー準位間の遷移は,すぐ上またはすぐ下の準位にしか起こらない。
(4)二原子分子の振動スペクトル(パターン10-5)
気体の分子の場合には,振動準位は回転運動によりさらに沢山のエネルギー準位に分裂する。
気体分子では回転運動が自由に起こっている。
このエネルギーも量子化されているので,飛び飛びのエネルギー準位が生じる。
このエネルギーが振動準位の上に積み重なったと考えても良い。
このようにして,多くの振動回転準位が生じ,ボルツマン分布則(付録参照)に応じた数の分子が分布する。
これらの間で遷移が起こるので(次章参照),気体分子の振動スペクトル(実際には回転エネルギー準位間の遷移も含む振動回転スペクトル)は非常に沢山の線から成る。
しかし,極低温に冷却するとほとんどの分子が最低の準位(υ= 0, J = 0)に集まり,赤外吸収は幅の狭い一本ないしは数本のスペクトルとなる。
実際に,一酸化炭素COと一酸化窒素NOをアルゴン中に希釈し,20 K程度の低温で測定すると,それぞれ2143,1876
に赤外吸収スペクトルが得られる(図10-2)。
これらはそれぞれC‐OおよびN‐O結合の伸縮振動によるものであり,振動基底状態(υ= 0)から第一励起状態(υ= 1)への遷移を引き起こすために吸収された赤外線の強度を示している。
(10.12)式を用いてυ= 0とυ= 1のエネルギー差を波数で表すと
(10.14) |
となる。
COとNOでは原子の質量は既知であり,それぞれの換算質量が(10.6)式に従って計算できる。
実測の波数を(10.14)式に代入して力の定数を計算すると,力の定数
(10.15) |
(10.16) |
が得られる。
(5)実際のポテンシャル曲線
ポテンシャル曲線が図4-7のように完全な二次曲線であるとき,その振動を調和振動という。
もしポテンシャル曲線が二次曲線であれば,核間距離の大きな所でエネルギーは無限に大きくなる。
つまり結合の切断はあり得ないことになる。
しかし現実には,どのような化学結合も結合エネルギーはほぼ数百以下であり,それ以上のエネルギーが与えられると結合が切断されて解離が起こることが知られている。
一方,様々な分光学的な測定によれば,基底状態の近傍でポテンシャル曲線は二次曲線にきわめて近いことも事実である。
電子励起状態ではエネルギーが接近した多くの状態があり,対称性の同じ状態がエネルギー的に接近すると相互作用が生じて,曲線に歪みが生ずる。
図10-3は窒素分子のポテンシャル曲線の一部を示したものである。
実際の分子ではある状態に遷移したあとでさらに,これらの相互作用を介して別の状態に移動するなど,ポテンシャル曲線に支配される複雑な現象を示す。