2.多原子分子の振動(パターン10-6,10-7)(ムービー10-3)
(1)多原子分子のポテンシャル曲面
三原子分子以上の多原子分子では分子の形を決める分子内座標(構造パラメーター)は3個以上あり,ポテンシャルエネルギーはこれらの分子内座標の関数になる。
これをポテンシャルエネルギー曲面とよぶ(図10-4)。
すべての座標に対するポテンシャルエネルギーを2次元平面上に図示することは不可能である。
したがって,通常はどれかの分子内座標を固定し,二つの分子内座標に対して三次元のポテンシャルを描く場合が多い。
この曲面をどちらかの座標に沿って切ると,その断面の下の方はほぼ2次曲線となっている。
原子核はこのポテンシャル曲面の中で運動していると考えることができる。
(2)多原子分子の振動波動関数
分子中の原子が示す微小振動は非常に複雑な形である。
例えば,ある原子が平衡点の周辺で図10-5のような軌跡を描くように運動しているとする。
この一見複雑な動きは,直交する線上に位置を投影すると,複数個の振幅と位相の異なる二つの単振動に分解できる。
逆にいうと,単振動を2次元平面で合成しただけでも相当複雑な動きになるということである。
N個の原子からなる分子では,後に述べるように3N−6個の振幅と振動数の異なる振動運動がある。
一つ一つの原子はこれらの振動運動を3次元的に合成した運動をしているのである。
多原子分子の赤外吸収スペクトルを測定すると,分子に固有の複数の吸収バンドからなっている。
赤外線を分子に照射してスペクトルを得ると,複雑な原子の運動は個々の基本的な振動数の成分に分けて観測される*1。
多原子分子の振動は,振幅と振動数の異なる互いに独立な振動型の重なりと考えてよい。
この一つ一つを基準振動とよぶ。
この基準振動の動きをという座標で表現する。
多原子分子の振動波動関数は,それぞれ独立な(10.12)式の関数の積で表すことができる。
(10.17) |
*1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
スペクトルの強度はに比例する。この量には,分子が振動によって変形するとき,個々の原子が有効電荷を保ったまま変位することの効果と,原子の変位によって電子分布が変動するために原子の有効電荷が変化する効果とが混ざっている。
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(3)基準振動の数(パターン10-7)
二原子分子の基準振動は結合の伸縮の1種類しかないが,多原子分子には何個の基準振動が存在するのだろうか。
振動とは平衡構造での原子配置を中心として,そのまわりで微小振動する運動である。言い換えると,平衡構造に対して,原子の相対的な配置を変える運動である。
原子1個には3次元空間で3方向に任意に運動できる自由度がある。
すなわち自由度は3である。N個の原子からなる分子の3次元空間での運動自由度は3Nである。
原子の相対的な位置関係を変えない運動には,分子全体としてx,y,z方向に移動する並進と,x,y,z軸まわりに回転する運動がある。
これら6個の運動の自由度を差し引いた自由度に属する運動は,何らかの相対的配置を変える運動,すなわち振動運動になる。
したがって,振動形や振動数の詳細を知らなくても,N個の原子からなる分子の振動の数は3N−6個あることが理論的に導き出される。
ただし,二原子分子や直線の多原子分子では分子軸まわりの回転は回転運動として意味を持たないから差し引くべき数は5となる。
つまり,直線型の分子の基準振動の数は3N−5個となる。
以上の事実を根拠として,測定した振動スペクトルの本数から分子を構成する原子の数が推定できることもある。
(4)基準振動の形と振動数
二原子分子の振動数は,(10.20)式からも分かるように,二つの原子の質量と力の定数(すなわちバネの強さ)に直接関係している。
多原子分子の振動数は質量を含む分子の形状(形と大きさ)および結合の力の定数によって決められる。
力の定数は化学結合の程度や近傍の原子のグループ(官能基とよぶ)に影響される。
したがって,振動スペクトルを測定することは,これらに関する情報を得ることに等しい。
以上に述べた3N−6(3N−5)個の基準振動の振動形(振動モード)は個々の結合の長さや結合角がばらばらに変動しているのではないことに注意したい。
例えば水分子H2Oには3N−6=3個の基準振動があり,それぞれの基準振動数(ωi)は3832,1649
,3943
である。
一方,二つのO‐H結合とH‐O‐Hの結合角の合計3個の構造パラメーターが存在する。
そして,前記の三つの基準振動形は図10-6に示したように,主に二つのO‐H結合が位相を揃えて伸縮する振動(ω1:O‐H対称伸縮振動),結合角が変動する振動(ω2:変角振動),そしてO‐H結合が逆位相で伸縮する振動(ω3:O‐H逆対称伸縮振動)となる*2。
多くの研究によって,分子の振動数は局所的な構造の種類,例えばOH,NH2,CH3,ベンゼン環などに依存しており,さらに周辺の原子によって一定のシフトをすることが分かっている。
表10-1に代表的なグループ振動数を載せた。
グループ振動の動きの例として,メチル基とメチレン基の場合を10-7に示した。
これらの情報を用いることにより,未知の分子を同定したりや混合物を定量したりすることができる
*2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この講義では対称性についての解説は省略したが,分子の様々な性質は分子の持つ対称性に厳密に支配されている。基準振動形も例外ではなく,分子の平衡状態での分子の形に応じた対称性(あるいは反対称性)を保つ振動形で運動する。孤立した分子の対称性は群論という理論で扱うことができる。
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(5)基準振動と基本振動
3N−6(直線型分子では3N−5)個の一つ一つの振動のポテンシャル曲線が二次曲線すなわち調和振動子と仮定したときの振動を基準振動という。
実際の分子では結合が長くなるとポテンシャル曲線が有限のエネルギーの解離極限に近づく。すなわち曲線は水平に近づく(図10-3参照)。
この二次曲線からのずれを非調和性という。エネルギーの低い領域でも多かれ少なかれ非調和性の影響を受けている。
そのため,実測のυ= 0とυ= 1のエネルギー差は底近くのポテンシャル曲線の形状から予測される調和振動数より小さくなるのが普通である。
この非調和性の影響を受けたυ= 0とυ= 1の間の実測のエネルギー差を基本振動数,そのスペクトルを基本バンドとよぶ。
先のH2Oの基準振動に対応する実測振動数(νi)はそれぞれ3656,1595,3756 である。
(6)スペクトル線の数
実測による液体や固体の赤外吸収あるいはラマン散乱スペクトルは,通常,数〜十数の幅を持つ。
これらは単一の振動による場合もあるし,何個かの振動が重なりあっている場合もある。また試料分子の周辺の環境によりスペクトルの広がりが変化する。
実測スペクトルの形状により,吸収(ラマン)線あるいは吸収(ラマン)バンドなどと,“線”と“バンド”を適宜使っているが,その区別は明確でない。
さらに,基本振動は常に測定されるとは限らない。
スペクトルの強度はそれぞれの振動形(モードともよぶ)によって異なるためである。
また第8章3(4)あるいは次の節3(2)で述べる選択則によっては,全くスペクトルとして現れないことがある。
これらのことから,(3)で述べた数のスペクトルが実際に観測されるとは限らない*3。
*3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
実際の測定スペクトルでは,(5)で述べる非調和性などの効果を反映して,υ=0→υ=2の遷移(倍音という)や異なるモードの組み合わせで生じる準位への遷移(結合音という)が一般に強度は小さいが観測される場合もある。また低振動数のモードの励起エネルギー準位には,環境の温度によっては多少の分子が分布(ボルツマン分布)するので,それらの準位からさらに高い準位への遷移が起こり得る。この遷移は温度を高くすると相対的な強度が増大するので,ホットバンドとよぶことがある。
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