3.赤外分光法とラマン分光法(パターン10-8,10-9,10-10)(ムービー10-4

(1)赤外分光法

 振動スペクトルを直接測定する通常の方法には,赤外分光法とラマン分光法とがある。

赤外分光法は振動準位間のエネルギーを直接測定する方法であり(図10-7),赤外分光器を用いて吸収スペクトルとして測定する場合が多い。

分光器の基本は第7章で述べたとうりである。赤外分光法は固体,液体,気体などの試料の形態を問わず,また表面反射,吸収,発光などの種々の観測様態に対応し,他の多くの分析機器と組み合わせて測定できる。

これら様々な手法や用途に合わせた装置や部品が市販され,多くの化合物に関する基礎データが完備している。

そのため,赤外分光法は試料の分光学的同定や定量の方法として最も広く使われている。

(2)ラマン分光法の原理

 振動スペクトルを測定する別の方法の一つにラマン分光法がある。

波長が一定で強い光源であるレーザーを試料に照射する。試料から散乱される光の大部分は,レーザー光と同じ波長を持つ。

これをレイリー散乱という。

そのほかに,レーザー光の波長とは異なる光も散乱される。

その強度はレイリー散乱の100万分の1程度である。これがラマン散乱であり,レーザー波長からのずれをラマンシフトという。

ラマンシフトの大きさは試料分子の振動数に対応している。以上の関係を図10-8に示した。

 ラマン散乱が現れる原因は次のとおりである。

強いレーザー光の刺激によって,電子励起状態が誘起される。

しかし電子基底状態とこの励起状態のエネルギー差は,レーザー光のエネルギーと一致しないので吸収は起こらない。

電子励起状態はただちに基底状態に戻り,レーザー光のエネルギーを電磁波として分子の外に散乱するのである。

このような機構で測定されるスペクトルの様相は,赤外吸収スペクトルとはおおいに異なる。

 分子は+の電荷と−の電荷を持つ粒子の集合である。

電磁波(光)の電場によって電荷分布の偏り,すなわち双極子モーメントが誘起される。これを式で書くと

(10.18)


である。

ここでαは分極率であり,電場Eによって誘起される双極子モーメントμの方向と大きさとを関連づける。Eの方向とμの方向は必ずしも一致しない*4。

 さて,光の電場がで振動しているとすると,電場の強さは次のように書ける。

(10.19)

分子固有の分極率も分子の振動によって変化している。

簡単のために振動の自由度がただ一つで,その座標を,振動数をとすると,

(10.20)

となる。

(10.19)と(10.20)を(10.18)式に代入して展開すると

(10.21)

となる。

(10.21)の右辺最後の式の第1項はレーザーと同じ振動数の光であり,レイリー散乱光を示す。

第2項がレーザー光からだけシフトしたラマン光を示す。

言い換えると,分子により散乱される光の一部は分子固有の振動数で変調され,これがラマン散乱になる。

通常はレーザー光より波長の長くなった(エネルギーが減った)が強く観測される。

これをストークス線とよぶ。

またラマン光が出るためにはが必要であることが分かる。

分極率とは外部電場によって分子の電荷分布が変わることを示す物理量である。

したがって,は分子振動によって分極率が,すなわち電場により誘起される双極子モーメントの割合の変化を表す量と解釈できる。

*4−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 双極子モーメントμと電場Eは3次元空間でのベクトル量であるから,(10.18)式を成分を含めて書くととなる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(3)赤外およびラマンスペクトルの関係

 赤外吸収バンドは振動の変形に伴って電荷分布の偏りが生じるモードが強く現れ,ラマンスペクトルには振動による変形に伴って電荷分布の空間的な大きさが変化するモードが強く現れる。

実際,赤外スペクトルにはC−H伸縮,C=O伸縮など変形が大きい官能基に特徴的なバンドが観測される。

一方,ラマンスペクトルには電子密度の高い分子骨格の変形に対応するモードが強く観測される。

 ベンゼン環を作るC‐C結合が同時に伸縮する基準振動がある。

この振動変形によって分子全体の電荷の広がりが変化することが予想される。

実際,この呼吸振動とよばれる振動は強いラマン線を与える。

しかしこの振動形によって+と−の電荷の中心は常に一致しているので,赤外吸収スペクトルとしては測定できない。

 また,二酸化炭素の二つのC‐O結合が同時に伸び,あるいは縮む対称伸縮振動は電荷の+と−の中心が変形に関わらず常に一致している。

すなわち,であるので赤外線吸収として観測できない。

しかし,が大きいのでラマンスペクトルとしては強いバンドが観測できる。一方,逆対称伸縮振動は赤外線吸収では大きな強度を持つが,ラマンスペクトルとしては観測できない。

 このように分子が対称中心を持つ形を持つ場合,赤外スペクトルとラマンスペクトルには,どちらかの方法のスペクトルに現れたバンドは他方のスペクトルには現れない。

これを交互禁制という。

このように二つの手法によるスペクトルを比較することにより,分子振動と分子の形(対称性)が明確に理解できる場合がある。

赤外線吸収とラマン分光法は振動分光における相補的な方法といえる。