4.振動分光法の応用例

(1)分子構造の研究(パターン10-11)(ムービー10-5,10-6

 図10-9に1,2‐ジクロロエタン()の赤外およびラマンスペクトルを示した。

第6章3−(1)で述べたように,この分子にはトランス形とゴーシュ形の二つの回転異性体がある。

図10-9の気体,液体および固体のそれぞれのスペクトルを比較すると,これら三つの相で回転異性体の存在比が変化していることが読みとれる。

グループ振動数とスペクトル強度から600〜800のバンドはC−Cl伸縮振動に起因することが分かるので,この領域のスペクトルを検討しよう。

 固体状態の赤外とラマンスペクトルを比較すると,700の赤外バンドはラマンスペクトルにはなく,748のラマンバンドは赤外吸収として現れていない。

すなわち赤外スペクトルとラマンスペクトルに交互禁制がある。

したがって,固体状態で分子は中心対称性を持つトランス形をとっていると結論できる。

液体のスペクトルは赤外吸収でもラマンスペクトルでも多くのバンドがあり,明らかに対称性の低いゴーシュ形の寄与が大きいことが分かる。

655のバンドは両スペクトルに観測され,これがゴーシュ形に属するC−Cl伸縮振動であると帰属できる。

温度を変えてスペクトルの相対的強度変化を測定することにより,液体での二つの回転異性体の存在比率をトランス:ゴーシュ≒1:2と推定することができる。

気体での回転異性体の存在比率はトランス:ゴーシュ≒3:1である。

730にある赤外バンドは,二つのC−Clが交互に伸縮するゴーシュ形の振動に帰属できる。

 このように,振動スペクトルでは化学的操作では分離できない分子種を区別して観測することができ,それらの互いの関係を調べることもできる。


(2)時間変化の追跡

 図10-10は酸素と窒素の混合ガスに電子ビームを照射したり,あるいはマイクロ波放電を行った後のガスの赤外発光スペクトルを短時間の間隔で測定した例である。

1) NO分子(1900に中心を持ち,1750〜1950に広がるスペクトル)が3ms程度で最大に生成し,その後段々と減少すること,

2) NO分子(2224前後のスペクトル)の生成は3msにかけて増大し,その後も比較的長い時間残存すること,

3) 酸化の程度の進んだNO分子(1618前後のスペクトル)も遅れて生成することなどがわかる。

 化学反応がどのような順番で,どの程度の時間で進行するかは化学の基本的な研究課題の一つである。

最近の赤外分光法では,ナノ秒(10−9s),ラマン分光法ではピコ秒(10−12s)の桁の時間分解能で振動スペクトルを測定することができるようになった。

(3)分光分析への応用(パターン10-12,10-13,10-14,10-15,10-16,10-17,10-18,10-19,

10-20,10-21)(ムービー10-7,10-8,10-9

 図10-11は16世紀に作成されたキリスト教の讃美歌の本に描かれた絵である。

これを顕微鏡下でラマンスペクトルを測定し,合計8種類,おもに図に示した6種類の顔料が使われていることが明らかになった。

この例は,1μm以下の空間分解能で材料の同定ができることを示している。

 赤外およびラマン分光法では前記のように,広がり方向には1μm程度,厚み方向には0.1μm程度の空間分解能で測定ができる。

試料の量としては,数pgでも可能であるといわれている。

微小,微量の試料に対してエネルギーや時間分解能の高い測定が非破壊的に,場合によっては遠隔で測定できること,生体内あるいは反応容器の中での試料を特定の処理をせずに,そのまま(in situ)の状態で測定できることが振動分光法の特徴である。

 これらの特徴を利用して,前記のような芸術作品や考古学的対象の歴史的研究や保存への応用,現代産業における材料評価,環境のモニタリング,そして何よりも物質科学の研究に振動分光法は有力な方法となっている。

おわりに

 振動スペクトルの測定と解析により,結合の強さや各種異性体の存在比,つまり安定性に関する情報を得ることができる。

多くの分子についてのこれらの情報を収集することによって,結合の強さ(原子間ポテンシャルの性質)や,結合の長さや角度のような幾何学的な性質について,官能基や結合の形態による共通性あるいは特異性のデータが集積されている。

逆にこれらのデータをもとにして,未知の分子の構造や性質を予測できる。

実際,分子力学あるいは分子動力学という手法と急速に発展している計算機の能力との結合により,新しい機能を持つ物質や薬品の開発に応用されている。

振動分光法はこれらの応用面への基礎的データを提供しているともいえよう。

演習問題

問10‐1:COおよびNO分子の実測振動数から,(10.15)および(10.16)に示した力の定数を計算せよ。

問10‐2:CO2分子の基準振動の数と形を考えよ。そしてどの振動が赤外およびラマン分光法で観測されるはずであるかを理由とともに述べよ(放送教材参考)。

問10‐3:分子のもつ振動エネルギーは,赤外あるいはラマン分光法だけでしか観測できないわけではない。その他にどのような観測方法があるかを述べよ(放送教材参考)。