第12章−電子スピンと核スピン −微視的粒子の角運動量(パターン12-1ムービー12-1

 電子および原子,分子などの微視的粒子そのものの挙動や,それらの集合体の物質の性質を決定する最も基本的な物理量の一つに角運動量があり,量子力学の体系のなかでも重要な性質としてこれまでの章でも既に何度か用いられてきた。

本章では,微視的粒子に固有の角運動量とはどのようなものであり,それがどのような形をとって現れるかを,ベクトルモデルにもとづいて学ぶ。

はじめに

 物質の回転に関わる物理量が角運動量である。

古典力学で惑星の公転や自転,こまの自転運動(スピニング)などを記述するときには角運動量を用いる必要がある。

角運動量はまた電子および原子,分子などミクロの粒子の挙動や,それらの集合体の物質としての性質を決定する最も基本的な物理量である。

電子や原子核などの軌道運動や自転運動,分子の慣性モーメントが関与する回転運動なども,すべて角運動量の性質によって統一的に記述できる。

 ミクロの世界の粒子はすべて固有の角運動量を持ち,それぞれが不連続的な値をとる。この固有の角運動量とよばれ,その量子化された状態はスピン量子数で指定される。

スピン角運動量は電子の場合は電子スピン,原子核の場合は核スピンとよぶことが多い。

スピン量子数は,一般的に整数または半整数をとることができるが,どちらが許されるかは運動の種類によって決まる。

 電子のふるまいを支配するパウリの原理は,多粒子系電子のスピン角運動量(電子スピン)を法則化したもので,量子化学の最も基本的な概念である。

第2章で学んだように,量子数を持つ電子スピンは原子や分子の電子配置を決め,化学結合を支配する。

後に説明するように,分子などの多電子系の電子状態はベクトル的に合成された電子スピン(スピン量子数S)で表され,対応する多電子系波動関数も(2S+1)(スピン多重度とよぶ)で区別される。

また,分子の回転エネルギーは,量子化された飛び飛びの値をとり,それらの準位は回転量子数J(ただし,Jは0または自然数)によって指定される(第11章参照)。

 電子のスピンおよび軌道運動によって磁場が生じるように,回転運動をする荷電粒子は磁気モーメントを発生する。

この磁気モーメントは角運動量に比例する物理量である。

磁気モーメントは,電磁波の磁場と相互作用することができる。その電磁波はおおよそラジオ波からマイクロ波領域の波長の長い電磁波(数mmから数cm)であり,相互作用エネルギーの大きさは赤外線や可視光線に比べて5〜7桁も小さい。

特に長い電磁波であるラジオ波は,原子核の磁気モーメントとの相互作用エネルギーに相当し,物質に対する透過性が高いため,生物・生体系をそのまま測定対象にすることができ,最先端の臨床医療断層画像診断などにも利用されている。

 一方,ミクロの粒子が持つ量子的な性質が巨視的な物質の性質としても現れることもある。

日常生活に欠くことのできない永久磁石(強磁性体)に現れる磁気の性質がその例である。

電気抵抗ゼロで電流が流れる超伝導現象,摩擦抵抗なし(粘性ゼロ)での液体ヘリウムの超流動現象は,ミクロの粒子の量子化された波動性がマクロのスケールで直接的に現れたものである。

この磁気的な機能は,多数の電子の磁気モーメントの協同運動に由来する量子現象である。

これまでの磁石は無機物質からできていたが,人工的に多数の電子スピンの性質を制御することができれば,有機分子を構成要素とする分子性有機磁性体などを設計できる。

量子化学をベースにしたこのような学際領域はスピン科学とよばれる。

また,これまでのエレクトロニクスが電子の荷電粒子としての性質のみを利用してきたのに対して,電子スピンそのものの性質を制御する科学・次世代技術は「スピニクス」あるいは「分子スピニクス」とよばれ,スピン集合体の波動性を利用する新しいデバイスを目指している。

 以下にスピンについての基礎と応用を学んでいくことにする。

1.角運動量のベクトル表現

 角運動量は大きさと向きをもつベクトル量であり,マクロの物体ではこれらの量は連続的に変化しうる。

一方,ミクロの世界では角運動量の大きさも向き(特定の軸に対する角度)も飛び飛びの値しかとりえないことを認識しておくことが大切である。

 図12-1に示すように,負の電荷をもつ電子e-の軌道運動は,軌道角運動量ベクトル単位)で表すことができる。ベクトルの大きさ(長さ)と特定の軸(z軸とする)への射影(ベクトルのz成分)は,

(12.1)


(12.2)



と表される。

ここに,は方位量子数とよばれ,0または正整数のみが許される((2.65)参照)。は磁気量子数とよばれ,からまで()個の整数が許される((2.66)参照)。は電子の磁気モーメントμの起源の一つであり,μの向きは反対である。

 =2の場合のをベクトルモデルで表現すると,図12-2のようになる。

z軸に対して,2×2+1=5個の向きの異なる状態がで,指定される。がz軸となす角度がθであり,五つのに対応して五つのθが決まる。

磁気モーメントμをもつ電子の場合,特定の軸(ここではz軸)がなんらかの方法で区別されないかぎり,五つの異なるの状態は同じエネルギー値をもつ。

このような状態を5重に縮重しているとよぶ。

一般に角運動量(たとえばJ)でミクロの粒子のエネルギーが決められる場合,,すなわちθが異なる状態は(2J + 1)個ある。そして特定のz軸の指定がない場合,これら(2J + 1)個の成分状態は同じエネルギー状態にある(第11章1.(3)参照)。

この場合,(2J + 1)を縮重度という。

z軸が指定されエネルギー値が異なる値に分裂することを「縮重が破れる」または「縮重が解ける」と表現する。

しかしその場合でも,同じθ状態,すなわち図12-2(b)に示したように,同じ円錐曲面上にあるスピン状態は同じエネルギーであることに注意する必要がある(後述)。

  =2のベクトルモデル(図12-2の左側)を簡略化して表現すると,図12-2(a)となる。

球の半径(単位)は,=2)で表される。

同じθをもつ状態は同じエネルギーをもつこと,すなわちz軸に直交する二つのx,y軸の成分()には依存しないことを述べたが,このx,y成分の不確定性を考慮したベクトルモデルが,図12-2(b)である。

ベクトルは,で指定された円錐面のどこかに位置し,その位置は特定されないという物理的な描像である。

ただし,ここではが円錐面上を回転していると想像してはならない。