3.核スピン統計と分子の回転状態

 スピンは,ミクロの世界の微視的粒子の性質を決める基本的な量であるが,微視的粒子の集合系である物質のマクロな(巨視的な)性質をも支配する。

以下に,気体水素の熱容量を例にとり,水素原子核の核スピンの性質がどのように現れるかを考えてみよう。

(1)気体水素の定積回転熱容量(パターン12-512-6)(ムービー12-4

 水素は単一成分からなる純粋な気体と考えられていたが,普通の水素(n‐H)はオルト水素(o‐H)とパラ水素(p‐H)とよばれる2種類の水素が室温で3:1の混合比をもつ混合物であることが1927年頃わかった。

普通の水素を活性炭とともに20Kまで冷却すると純度の高いパラ水素が得られる。

このパラ水素の蒸気圧,沸点などのマクロな性質は,普通の水素と異なる。

図12‐6に,パラ水素と普通の水素の定積回転熱容量を示す。

○印は実験値である。

この曲線は低温において,古典力学の予測(1章2.(5)参照)から大きくはずれることを示すだけでなく,2種類の水素が異なる挙動をもつことも示している。

この現象が理論的にどのように説明できるかを考えてみよう。

 回転の熱容量(回転)は次のように定義される。

 

(12.6)

 

ここで,は分子集合系の回転運動による全エネルギーである。

さて,温度T Kの平衡状態にあってエネルギーをもつ分子の数はボルツマン因子に比例する(付録C参照)。

ここにkはボルツマン定数である。分子集合系の全分子数Nと全エネルギーは,

(12.7)


で与えられる。

多数の分子集団系のエネルギーを分子の間に分配する方法は,分配関数によって与えられる。

をもつ状態数の和に等しく,個々の分子の微視的性質と多数の分子集団系の巨視的性質を関係づける橋渡しとなるのもので,無次元の量である。

ボルツマン分布が成り立つ場合には,

(12.8)

で表される。

ここにをもつ状態の縮重度である。

は状態の数が多いほど分配にあずかる割合も多いことを保証する。

は,とNを用いると,

(12.9)

と表される。

を用いると全エネルギーは,

  

(12.10)

 

で与えられる。

 回転運動をする分子の集合系に上記の議論を適用する。

まず,回転量子数の状態にある分子の回転エネルギーは,

   

(12.11)



で表される(第11章(11.15)式参照)。

Jで指定される状態の縮重度(2J+1)を考慮すると,(12.8)式は

 

(12.12)

 

となる。

これで,(12.6)式を理論的に計算する準備がととのった。

 p‐H系の実測に合わせるためには(12.12)式を用いて全エネルギーEpを計算する際,のように偶数のみを用いる必要がある。

一方,,o‐H系の全エネルギーを(12.12)式で計算する場合にのように奇数のみを用い,しかも混合系の全エネルギーを計算する場合に

   

(12.13)


のようにo‐H系に3倍の重みをかけなければならない。

それは,すべてのJの状態において,オルト水素の数とパラ水素の数の混合比が3:1だからである。

図12-6が示すとおり,理論値は実験値をよく再現している。

 では,なぜパラ水素に対しては偶数のJのみの,オルト水素に対しては奇数のJのみの状態和を計算する(を用いる)のか,また混合比3:1はミクロの粒子の基本的な性質からどのように説明されるのだろうか。

(2)等価な粒子の存在状態に対するパウリの原理(パターン12-7

 水素分子のなどのような等価な原子核から構成される分子は,核スピンの状態からの制約のために任意の回転状態をとることはできない。

これは,ミクロの世界の基本的法則として既に学んだパウリの原理,すなわち等価な微視的多粒子系の全波動関数がうける基本的制約による。

パウリの原理によると,「2個の等価な粒子を交換するとき,それらのスピン量子数が半整数ならば全波動関数Ψは−Ψに,スピン量子数が整数ならばΨは+Ψにならなければならない」。

粒子交換に対して,前者を「反対称的」,後者を「対称的」という。

また,スピン量子数が半整数の粒子をフェルミ粒子,整数の粒子をボース粒子とよぶ。

(3)回転する水素(H2)分子に対するパウリの原理の適用(パターン12-8

 分子を180°回転すると,等価な原子核が相互に交換する。水素核(H)はのフェルミ粒子なので(表12-1参照),パウリの原理によって全波動関数は等価な粒子の交換を伴う180°回転運動に対して「反対称的」でなければならない。

ここで問題にする全波動関数Ψは,分子の回転とそれに伴う二つの水素核の交換に関係する部分のみを考慮すればよいので,核スピン状態を表す波動関数をψ(核)とすると,

Ψ=ψ(核)×YJm   (12.14)

となる。

すなわち,分子の回転運動にパウリの原理を適用するには,回転の波動関数(3章1.(4)の(a)参照)YJmの180°回転に対する符号の変化と,等価な原子核の交換に対するスピン関数の符号の変化を知る必要がある。

YJmの関数の形をみると,180°回転に対して,YJmの符号は (-1)の因子で決まることがわかる。

反対称なYJmには,J=1,3,5,…などの奇数が対応し,対称なYJmには,J=0,2,4,…などの偶数が対応する。

 1個のの核スピン状態は,α(1)とβ(1)である。括弧内の数字は,1番目の水素核であることを示す。

2番目の水素核についても同様に,二つの状態,α(2)とβ(2)がある。のスピンベクトルの合成により合成核スピン量子数I=0と1の核スピン状態ψができる(章末補遺参照)。I=1(オルト水素)の状態関数は,

   

(12.15)


であり,I=0(パラ水素)の状態関数は,

   

(12.16)


と表すことができる。

(12.15)式の三つの核スピン関数で表される状態は,番号1と2の水素核の交換に対して符号が変わらない。

すなわち「対称的」である。

一方,(12.16)式で表されるスピン関数は核の交換に対して符号が変わる。すなわち「反対称的」である。

 以上より,分子が180°回転をするとき,Ψが符号を変える組み合わせは,


Ψ(反対称的)= 対称なψ(核)(オルト水素)×反対称なYJm (12.17)

または,

Ψ(反対称的)= 反対称なψ(核)(パラ水素)×対称なYJm   (12.18)

となる。

したがって,水素核の核スピンを考慮すると,オルト水素分子は,奇数のJの回転量子準位のみが存在し,3倍の重みをもつ。

一方,パラ水素分子は,偶数のJの回転準位のみが存在し,1倍の重みをもつ。結局,混合比3:1は,等価なフェルミ粒子()の交換に対して対称な核スピン波動関数の数と反対称な波動関数の数の相対比を反映する。

 一般に,核スピン量子数Iの等価な核が二つある場合,それぞれのスピン多重度はであるから,可能な状態の総数はとなる。

そのうちで,対称的な核スピン波動関数の組み合わせの数は,であり,反対称的な関数の数は,であるので,

  

 (12.19)



が成り立つ。

(4)パウリの原理が直接あらわれる他の例(パターン12-9,12-10)(ムービー12-5)

 ここでは,ミクロの世界の情報を直接観測する分光学においてパウリの原理が現れる例を示そう。

CO分子は,電子基底状態では直線形である。

COの回転を含むスペクトルでは,Jが偶数の間の遷移しか観測されない(7章参照)。

二つの等価な16O核(=0)はボース粒子であり(表12-1参照),粒子の交換をともなう180°の回転に対して全波動関数は対称でなければならない。

(12.19)式よりスピン関数は対称的なものしかない。

したがって,回転も対称的な状態しか存在しない。

すなわち,(-1)=+1となる偶数のJのみの回転状態しか存在しないのである。

 アセチレン分子は,電子基底状態では直線形で,二つのC−H結合は等しい。

図12-7に,室温で観測されたアセチレン分子の振動回転スペクトルを示す。吸収ピークに記した数字は,振動の基底状態v=0における回転準位J(遷移の始状態)を示す。

C2H2分子では,奇数のJの強度が,偶数のJの強度に比べて3倍強く観測される(図12-7(a)参照)。これは,H分子の回転状態が,フェルミ粒子に対するパウリの原理によって制約をうけていたのと同じ理由で説明できる。

同じアセチレン分子でも,HをDに同位体置換したC分子では,偶数のJの強度が奇数のJの強度に比べて2倍強く観測される(図12-7(b)参照)。

D(2H)核の核スピン量子数はI=1であり(表12-1参照),C分子の回転状態は,ボース粒子に対するパウリの原理の制約をうける。

遷移の相対強度は,(12.19)式から1(J:奇数):2(J:偶数)となる。