5.磁化と磁気共鳴現象(ムービー12-8)
(1)集合系磁気モーメントの歳差運動のベクトル表現(パターン12-14)
1個の磁気モーメントμの歳差運動のベクトル表現を学んだので,次にμの集合系の運動を扱う。
ここでは,核磁気モーメントγnI(γn>0),すなわち核スピンIを例にとる。
図12-11に,の核スピン集合系のベクトルモデルとエネルギー準位を示す。
ここでは,後に出てくる振動磁場B1と区別するために,磁場BをB0で表す。
図の上には,α核スピンとβ核スピンのエネルギー準位に占める状態の数を概念的に示した。
ゼロ磁場では,α核スピンとβ核スピンの状態の数は等しく,個々の核スピンは円錐面上での位置は不確定であるが静止している。
数が等しいので,正味の核磁気モーメントの和はゼロである。
B0≠0では,個々の核スピンは円錐面上を角周波数(ω=γnB0)で回転するが,熱平衡状態にある試料ではα核スピン状態の数がβ核スピン状態の数より多いので,核磁気モーメントのベクトル和の正味の成分Mがz成分として現れる。
このMを磁化とよぶ。
いわば,核スピンの束のz成分に相当するものであるが,Mを新たに「磁化ベクトル」とよぶことも多い。
以上が,磁気モーメントの集合系の歳差運動をベクトルモデルで表現した描像であり,核スピン量子数の系などに対しても拡張できる。
以下では,磁気モーメントの集合系の運動を磁化Mの挙動を介して調べる。
(2)電磁波の振動磁場の効果と磁化の自由誘導減衰(FID)(パターン12-14)
図12-11で示すα核スピン状態の粒子をβ核スピン状態に励起するには,準位間のエネルギーに等しい電磁波を試料(=磁気モーメントの集合系)に照射する必要がある。
試料がの電磁波を吸収することを磁気共鳴現象とよび,他の分光学でいう共鳴と基本的に同様の現象である。
ただし,磁気共鳴では,磁気モーメントの回転状態の間の遷移を誘起するにはで振動する電磁波の磁気成分B1が関与する点が異なる。
B0=10T(テスラ)のもとで,1H原子核の磁気共鳴を起こすには,2.7×109s−1のラーモアの歳差運動を誘起するラジオ波を照射する。
このラジオ波は,角周波数に換算すると430MHzとなる。
通常,核スピンの磁気共鳴は核磁気共鳴(NMR;Nuclear Magnetic Resonance)とよばれ,電子スピンの磁気共鳴は電子スピン共鳴(ESR;Electron Spin Resonance)とよばれる。
(ムービー12-9)
図12-12に,B0に直交し角周波数ω1で回転する回転磁場B1((a)参照)が磁化ベクトルMにどのような効果を与えるかを示す。
共鳴条件下,すなわちラーモア歳差運動の周波数ωとω1が等しいときには,“見かけ上B0は消失し,Mは方向が変化しない実効磁場B1のみを経験し”,その結果このB1のまわりに歳差運動を始める。
図12-12(b)に示すように,回転磁場を加えると,回転磁場B1上に乗ってMを眺めたときMはあたかも静止しているように見える。
このときMが経験する磁場は“静止したB1だけ”であるために,MはB1のまわりに角周波数ωで歳差運動を始める。
これが回転磁場によって起こる集合系磁気モーメントの磁気共鳴現象をベクトルモデルで描写した像である。
Mがz軸となす回転角はθ=ωtで与えられる。
ここにtはB1を試料に加える時間である。時間τのパルス磁場B1を加えると,磁化ベクトルMはその時間だけ歳差運動をする。
t>τではB1は試料内には存在しないのでMは角周波数ωで回転しながら元の位置(t=0)の熱平衡状態へ,すなわちz軸へ戻っていく。
これが,磁化Mの自由誘導減衰(Free Induction Decay:FID)とよばれる運動であり,試料内の局所的な磁気的環境の情報を敏感に反映する。
この様子を,図12-12(c)に示す。
磁化ベクトルMの運動は,x軸に設置したコイル内に角周波数ωの誘導電流を発生するので,これを電圧に変換して検出する。
磁化ベクトルMの大きさは,t'=t−τ後の観測中に減衰する。この減衰の特性時間(時定数)をT2とすると,コイルで検出される磁化のx成分Mx(t′)は,
(12.22) |
で表される。
特性時間T2で表される磁化ベクトルMの減衰は,個々のスピンが少しずつ異なる角周波数で歳差運動をしていることに起因する。
スピンの束がxy面内で(図12-12(c)参照)指数関数的にばらばらになる時定数がT2であり,横緩和時間またはスピン-スピン緩和時間とよばれる。
核スピンの熱平衡状態(図12-11)では、αスピン状態の占有数がβスピン状態の占有数より多く、この熱平衡状態に戻る過程がFIDである。
パルス振動磁場B1を加えられてxy面内に移された磁化Mベクトルは等しい占有数からなる。
この等しい占有数の状態は核スピンの励起状態であり,指数関数的に熱平衡状態へ戻っていく。
この緩和は,磁化のz成分Mz(t′)が別の時定数で平衡値Mz(0)へ戻る過程として,
(12.23) |
と表される。
磁化のz軸方向の緩和なので,は縦緩和時間とよばれる。
この緩和過程では,励起状態にある核スピンが周囲(格子という)にエネルギーを放出するので,はスピン-格子緩和時間ともよばれる。
スピン-格子緩和の原因は,核磁気モーメントが分子運動に起因する局所磁場の揺らぎを経験するためである。
xy面内の磁化ベクトルが減衰する過程は,スピン緩和とよばれる。
減衰の原因は,以上に示すように二つあり,いずれもパルス振動磁場B1によって励起された核スピン状態が熱平衡状態に戻る過程である。
今日最先端の臨床医療などに応用されている非破壊的な断層画像撮影(Magnetic Resonance Imaging:MRI)は,局所環境のスピン緩和の違いを巧妙に利用したものである。
最近では,生体内の水素核の磁化が経験する局所磁場の変動を検出することにより,生体の微小部位の生理機能が血液の流入によって活性化する様子を,動的な断層画像として解析することもできる。
(3)パルス振動磁場の役割とフーリエ変換(パターン12-15,12-16)
パルス振動磁場B1の継続時間τは,で振動するB1がもつ角周波数の帯域,すなわち周波数の広がりと密接な関係がある。
τが無限のパルスは,強さB1の単一周波数の波(=単色波)と同じである。τのパルス磁場がもつ角周波数の広がりΔωは,ほぼτ−1に等しい。
たとえば,継続時間が1μsのパルスは,約200kHzの角周波数の広がりをもつ。
鋭い(短時間)パルス磁場ほどカバーする角周波数は広く,したがって角周波数の範囲内(ω1−Δω<ω<ω1+Δω)で共鳴条件を満足する多数の核スピンを同時に励起することができる。
したがって,FIDを観測するために,個々の核スピンの異なる環境を反映したいろいろなラーモア角周波数を前もって知る必要はない。
このようなパルス振動磁場B1の効果は,図12-13に示すように,鐘つきの鋭い一撃になぞらえることができる。
一撃によって,鐘はいろいろな振動数(νa,νb,νc)で同時に振動を始め,それらの合成音を発生する。合成音
は全体として次第に減衰していく。
この合成音の減衰過程は,環境の異なる核スピンや異なる核スピン種に由来する異なるラーモア角周波数(=
)の合成からなるFIDに相当する。
合成されたFIDは,個々の振動関数の和,
(12.24) |
で表される。
ここに,i=a,b,cであり,A()はの振動の振幅を表す。
したがって,複雑な波形のFID曲線を振動の調和成分(三角関数)に分解し,個々の振動数と振幅
を拾い出すことができれば,個々の核スピンとその環境を特定できることになる。
時間軸のFID信号から
を解析する数学的手続きをフーリエ変換(Fourier Transform:FT)とよぶ。
実際上は,FTの過程はすべての可能な振動数領域についての和(=積分)をとり,高速のコンピューターによる数値処理で行う。
FID信号は,便宜的に時間領域のスペクトルとよばれ,
(12.25) |
と表される。
ここで,は振動数νが寄与する信号強度であり,(12.24)式の
に相当する。
は振動数領域のスペクトルとよばれ,
(12.26) |
と表される。
(12.25)式と(12.26)式の関数変換の関係を一般的にフーリエ変換とよぶ。
図12-14の(a)〜(c)に,時間軸で表される振動波形曲線がどのように振動数軸の関数に変換されるかを示す。
(d)には,減衰因子を考慮したフーリエ変換の例を示す。
振動数領域のスペクトルが線幅をもつ原因は,減衰因子によることがわかる。
おおよその線幅は,スピン緩和を支配する時定数T2やT1の逆数に比例する。
(4)化学シフトと核スピン間相互作用による微細構造(パターン12-17,12-18)(ムービー12-10)
図12-15に,四塩化炭素溶媒に溶かしたエタノールCH3CH2OHの1H核のFID信号とフーリエ変換後の周波数スペクトル(1H核のNMRスペクトル)を示す。
観測されたFID信号は,八つの異なるラーモア角周波数の合成波形である。
3種類の1H核は,同じ元素であるが異なる環境にあるために,それぞれが経験する局所的な磁場が異なる。
その結果,大別して三つの異なるラーモアの角周波数ωで共鳴を起こし,3グループのNMRスペクトルとなる。
メチレン基の1H核が経験する局所磁場は,メチル基の1H核の局所磁場よりも大きい。
ここでは,OH基の1H核は,別のエタノール分子との水素結合の影響を受けて大きな局所磁場を経験しているが,さらにエタノールの濃度を1000分の1にすると,その局所磁場はメチル基 の1H核よりも小さくなる。
ある核の共鳴周波数ωと基準物質と同種核の共鳴周波数ω0との差を化学シフトとよび,化合物の同定に威力を発揮する。
メチル基とメチレン基の1H核の共鳴線は,それぞれ3本と4本に分裂している。
この分裂は,スペクトルの微細構造とよばれる。
分裂の原因は,ある核スピンが隣接する他の核のスピン磁気モーメントによって生じる局所磁場を経験し,そのラーモア角周波数が影響をうけるためである。
これをスピン‐スピン結合とよぶ。
この効果による分裂の大きさは,外部磁場の強度B0に依存しない。
図12-15では,三重線,四重線の微細構造の強度比は,それぞれ,1:2:1,1:3:3:1である。
これらの起源は,以下のように考えればよい。
いま分裂をうけるプロトンの共鳴に注目する。
そのプロトンがメチル基の三つの等価な1H核の一つであるとき,隣接するメチレン基の二つの1H核()の核スピン配列(核スピン状態)の数は22=4個ある。
図12-15 (c)ではこれらを白丸(αスピン),黒丸(βスピン)の組で示している。中央の線の相対強度2は,αβとβαの組の寄与が一致するためである。
メチル基の三つの1H核のスピン配列は,23=8個ある。
したがって,隣接メチレン基のプロトンの分裂を考える場合には,4組の異なる局所磁場を経験することになる。
一般に,N個の等価な核スピンの核は,隣接する核スピンまたは1組の等価な核スピンの共鳴線を(N+1)本に分裂させる。
そのときの相対強度比は,の展開係数で与えられる。図12-15のスペクトルでは,一重線,四重線および三重線の相対強度比(共鳴線の面積比)は1:2:3である。
これは,ラーモアの角周波数で共鳴する水酸基,メチレン基,およびメチル基を構成する等価な核(プロトン)の数に等しい。
図12-16に,炭素原子のみからなるフラーレンC60の13C核(,天然存在率1.108%)のNMRスペクトルを示す。
13C核スピンは,すべて等価な環境にあるために,共鳴線は1本で微細構造分裂は現われない
(5)核磁気共鳴イメージング(パターン12-19)
本章のはじめでも述べたように,核スピンの励起に照射するラジオ波は物質に対する非破壊的な透過性が高い。
この性質を利用して,核磁気共鳴は生物・生体系を丸ごと測定対象として内部の微小領域の構造や機能の動的な解析に利用されている。
最先端の医療技術としての断層画像化(イメージング)診断は,MRI(Magnetic Resonance Imaging)とよばれる。次に,その初歩的な原理を説明する。(パターン12-20,12-21)
磁気共鳴イメージングは,同一化学シフトをもつ核スピンがうける磁場勾配の効果を利用する。
磁気環境が同じであるために化学シフトが同じ核(γ′=γ(1−σ))であっても,磁場勾配があるとラーモア角周波数の違いが生じる。
いま1次元(X軸方向)の磁場勾配をとする。ある核スピンがうける磁場はB0+gXであるから,Xに位置する核スピンのラーモア角周波数ω(X)は,
ω(X)=γ′(B0+gX) (12.27)
=ω+kX (12.28)
=ω[1+(g/B0)X] (12.29)
と表される。
ここで,ω=γ'B0,k=γ'gである。
したがって,Xに位置する核スピンを識別できる。
これをX位置の角周波数コード化(Frequency Encoding)とよぶ。
図12-17に,同一の化学シフトともつ核スピンで詰まった箱のx1からx2までを,(12.29)式に従ってコード化する概念図を示す。
コード化によって得られるX方向の断層を図の右側に示す。
この方法を3次元に拡張すると,位置(X,Y,Z)の極微小空間。核スピン磁化ベクトルを識別できるので,物質内部を3次元的に断層画像化できる。
生物・生体系に適用されたMRIではもっぱら1H核が使われるが,異なる核スピンの化学シフトをも利用した次世代のMRIの登場も近い。