3.分子の動的構造

(1)分子の振動

 分子の動的構造のうち,まず分子の振動をとりあげる。

たとえばベンゼン分子,C66図13‐4に示したような振動をしている。

(a)は呼吸振動といって,べンゼンが正六角形を保ったままで,大きくなったり小さくなったり(これを全対称振動という),ちょうど人間が呼吸するときの胸の動きのような振動なので「呼吸振動」ともよばれている。

これは992 cm−1の位置に現れる。

(b)では正六角形を保ったままで,水素原子と炭素原子の間の距離が伸び縮みする(全対称CH伸縮振動)。

この形の振動は3062cm−1の位置に現れる。

 アルゴンイオンレーザーを使って,このような分子が動いている姿をとらえることができる。

ある分子にアルゴンイオンレーザーの光を当てて,そのとき分子から散乱されてくる光を調べてみると,もとと同じ振動数をもつ光(レイリー散乱光)が圧倒的であるが,ごく弱いながらも,もとの振動数からずれた光(ラマン散乱光)も含まれている。(パタ-ン13-14)(ムービー13-6

この「ずれ」は分子が振動している周波数と同じものになる。これがラマンスペクトルである。

ラマンスペクトル測定用の光源として,レーザーの出現以前には水銀灯の光を使っていた。

水銀灯の光は弱いので,ラマン散乱光の測定は写真乾板を一日がかりで露出する大仕事であった。

それがいまはレーザーのおかげで肉眼にも見えるほどの強いラマン散乱光が得られ,きわめて短時間で測定できるようになった。

(2)励起電子状態の分子の動的構造

一般的な有機分子のエネルギー準位の概念図を図13‐5に示す。通常の分子の基底状態は一重項である(これをSと表す)。

これを励起一重項状態(SあるいはS)に励起する。

この状態の分子は蛍光を発して,あるいは光を発することなく(無放射的に)内部変換過程を経て基底状態にもどる。

蛍光は前に述べた自然放出の過程である。(パターン13-16

 蛍光の強さは,その瞬間に存在する励起状態の分子の数に比例し,ほかの分子による失活過程がとくにない場合には,励起直後から指数関数的に減衰する。

時刻tに励起状態にある分子数は,時刻0に励起状態にある分子数を使って

(13.6)


のように書ける。

強度が初めのe分の1になる時間を「寿命」という。

eは自然対数の底で,e=2.71828…である。

典型的な有機分子の励起状態(S1状態)の寿命は,数ピコ秒から数ナノ秒,長くてもせいぜい数十ナノ秒ぐらいのものである(たとえばベンゼン分子では26ナノ秒程度)。

こういう短い寿命を測定するには,パルスレーザーがとても適している。

 さて,励起一重項状態に励起された分子の一部は,電子スピンを変換する項間交差過程を経て三重項状態(TあるいはT,)に移る。

パルスレーザーを用いれば,この項間交差の速度を測定できる。

時刻0に第一のピコ秒パルスで分子をS1状態に励起し,これからいろいろの遅延時間後に第二のピコ秒パルス(T←T吸収を起こす)を打ってみると,分子がT状態に移った時点からTn←T吸収が観測されはじめるからである。

たとえばアクリジンのイソオクタン溶液では,T←T吸収の立ち上がり時間からT状態の生成速度が求められている。

 スチルベンやシアニン色素のような分子では励起一重項状態からシス‐トランス異性化が起こる。パルスレーザーを用いれば,この異性化の速度を測定できる。

たとえば,シス‐スチルベンのみからなる試料溶液を用いてトランス‐スチルベンに異性化させるとき,時刻0に第一のピコ秒パルスでシス‐スチルベンを励起して,これからいろいろの時延間後に第二のピコ秒パルス(トランス‐スチルベンを励起して,これからの蛍光を発しさせる)を打つと,トランス‐スチルベンが生成した時点(20 ps以下)から蛍光が観測される。

 これらは2発のレーザーパルスを用いる「時間分解分光」の例である。

このような場合,第一のものを「ポンプ」パルス,第二のものを「プローブ」パルスという。これらは波長が異なるが,通常1台のパルスレーザーの光を二つに分け,波長変換あるいは色素レーザーを用いて2種の波長を得る。

パルスの間の時間遅れを生じさせるには,ピコ秒レーザーの場合,反射鏡を用いるなどして一方のレーザー光を「道草]させて長い距離を引き回せばよい(3mm余分に引き回すと10 psの遅れに相当する)。

(3)化学反応の中間体の検出(レーザー誘起蛍光と多光子イオン化)(ムービー13-9

 さて分子の動的な姿としてとても重要なものに化学反応がある。

ここでは,分子が光エネルギーによって分解する反応(光解離反応)をレーザーを使って追跡することについて述べる。(パターン13-18

反応は当然,時間を含む過程であるから,パルスレーザー光で光解離反応を起こして,それに続く過程を調べていく。

エキシマーレーザー光や色素レーザーの2倍波は紫外線である。

紫外線の光子のエネルギーは分子の化学結合のエネルギーに相当するので,化学結合を切ることができる。

 光分解反応がどのように進むかを知るためには,分解してできた「分子のかけら」(フラグメントという)がどういうものであるかを調べることが重要である。

そのためのレーザー誘起蛍光法と多光子イオン化法(パターン13-19)について述べる。

まずレーザー誘起蛍光法は,電子基底状態のフラグメントが生成したとき,そのフラグメントが吸収するレーザー光で励起して蛍光を出させて観測する。

次に多光子イオン化について述べる。

分子が光を吸収して励起状態に上がるとき,普通の光を使った場合には,分子は1回に1個の光子を吸収してのエネルギーを吸収する。

ところがレーザーの光を吸収する場合には,1回に2個,3個,場合によれば数十個の光子を吸収することができる。

これを多光子吸収という。

その可能性について理論的に予想されてはいたけれども,その実験的な証明は(可視・紫外領城では)レーザーによって初めてなされた。

さて分子をイオン化するために必要となるエネルギー(イオン化エネルギー)は,分子の種類によるが,有機分子の場合には一般的に7〜8eV以上である。

これは光の波長でいえば(1光子の場合)180nmから150nmぐらいに当たる。

したがって,分子をイオン化するためには普通の紫外線より短波長の真空紫外線を用いなければならない。

(約180nmより短波長の紫外線は空気中の酸素によって吸収されてしまうから,真空にしないと届かない。それで真空紫外線という)。

しかしレーザーの多光子吸収を用いるならば,これが紫外レーザー光,あるいは可視レーザー光でも可能となる。

これを多光子イオン化といっている。

 ここに挙げた2種類の方法は分子の構造を知るのに有力であるほか,化学物質の検出に用いるときに感度と選択性に優れ,とても有効な手段となる。

例として,卜リメチルガリウムGa(CH)3分子の光分解反応の研究について述べる。

この分子は,ヒ化ガリウムGaAsという重要な半導体を作るときの原料の一方になる重要なものである(もう一方の原料はヒ素を含むアルシンAsHである)。

図13‐6の真空装置の中にGa(CH)3分子の流れ(分子線)を噴き出して,これに光解離用のレーザー光を当てて分解する。

(a)のように噴き出せば気相での光分解を,(b)のように噴き出せば基板表面上での光分解を調べられる。

生成するフラグメントをプローブレーザーの光で多光子イオン化してから,飛行時間型質量分析計で調べる。

飛行時間型質量分析計では,イオンを加速電極を用いて一定の電場で加速したあと電場のない一定距離を飛行させる。

そうすると,軽いイオンは速く動いて,早い時間に検知器に達するが,重いイオンは遅く動くので遅い時間になってから検知器に達する。

この原理で軽いフラグメントと重いフラグメントとを分ける。この方法で得た質量スペクトルの例を図13‐7(パターン13-20)に示した。

 図13-7の実験では、光解離用のレーザーとプローブレーザーとして同一のレーザー(色素レーザーの2倍波)を使っている。

図で横軸には各イオンの飛行時間およびこれから分かるイオンの質量,縦軸には各イオンの信号強度(存在量),奥行き方向には使ったレーザーの波長が示してある。

この質量スペクトルには親分子Ga(CH3)3のほかにフラグメントとしてGa(CH)2,GaCHとGaがみられる(もちろんすべてイオンとして検出されている)。

このような解析によって,この分子がだんだんと分解して最後にガリウム原子にまでなる過程がだいたい次のようであることが分かってきた。


(*は電子励起状態を,†は振動励起状態を示す。)

 ここではエキシマーレーザーでポンプした色素レーザーの2倍波(ナノ秒レーザー)を使う実験例を示したが,ピコ秒レーザーや,フェムト秒レーザーを用いれば,もっと速い化学反応の研究ができる。