5.液体および固体における分子間相互作用

 液体や固体など,いわゆる凝集系に見られる分子間相互作用についても

,様々な間題意識と方法論に基づいて,実験と理論の両面から活発な研究が行われている。

その中から最近とくに話題となっている研究例として,三つの話題を取り上げよう。

(1)水素結合クラスターおよび水溶液で見られる分子間相互作用(パターン14-14,14-15,14-16)(ムービー14-6

(a)水分子の水素結合

 水の分子量は18で,窒素および酸素分子の分子量(28と32)の半分ぐらいである。窒素や酸素は室温で気体であり,炭化水素のメタン(分子量16)やエタン(30)も同様である。

それなのに,水はなぜ室温で液体なのだろう。

その理由は,水分子の間には「水素結合」による強い引力が働いているからである。

 分光学をはじめ様々な実験と量子化学計算によって,二つの水分子が近づくとO‐H‐Oの3原子がほぼ一列に並んで,「水素結合」が形成されることが知られている(図14-10)。

水素結合の内容は一言で説明できるほど単純ではないが,最も本質的な点は,系の中で電荷の偏り(分極)が起こり,それに基づく静電的な力が働くことである。

すなわち,水素結合に参加するH原子のまわりにある電子は隣のO原子の正電荷に引かれて,電荷分布は孤立した水分子の場合からはずれ,正負の電荷の間にクーロン引力が働いて,分子は互いに引き寄せられる。

水素結合は通常の化学結合ほど強いものではないが,自然界に存在する多くの水素化合物(たとえば生体関連物質)の構造および化学的性質を決める重要な分子間相互作用である。


 水の中のH2O分子は,低温ではこの水素結合によって次々と連結し,たとえば,図14-11のように,水2分子の間に作られる水素結合を一辺とし各酸素原子を頂点とする六角形の立体構造を構成する。

水の結晶(氷)は,この六角形が3次元的に広がって作り上げられたものである。

一方,水を気相に吹き出してクラスターを作ると,この六角形のほかにプリズム型などの異なった形を持つクラスターも存在することが理論計算から予想されている。

(b)液体中の水分子の集合状態と動き

 われわれは気温20 ℃,297 K前後の環境で生活している。

この温度の液相で,水の分子は激しい動き(振動,回転,並進運動)をしている。

それらの運動を取り入れてコンピューターによる理論計算をすると,液体の水がどんな状況にあるかをかなり正確に再現できる。

口絵は,ある瞬間から約2ps後に,それぞれの水分子がどのように動いたかを示したものである。

それぞれの水分子の中のH原子と水素結合している隣のO原子を線で結び,特に大きく動いている水分子を白く示している。

この図から,数十個の水分子が一団となって,集団的な運動をしていることがわかる。

液体の中では,このように水素結合で結ばれた水分子の単位集団,すなわちクラスターが存在する。

しかし,個々のクラスターの寿命はきわめて短い。

 様々の大きさと形を持つクラスターが成長し,また壊れていくという離合集散の過程は,1〜100 psという短時間のうちに繰り返し起こっている。

また,液体中の水分子のネットワークはまったく無秩序な構造をとっているように見えるが,図をよく見ると,その中には多数の変形した六角形あるいは五角形の水素結合構造が存在し,「水の部分構造」は「変形した氷の構造の断片」と考えてよいことがわかる。


(c)溶液中の溶質分子と溶媒分子の相互作用

 液体や固体の中に存在する分子間に働く相互作用を実験的に確かめるにはどうすればよいだろうう?

分子間相互作用は種々の物理量にそれぞれ特徴的な影響を及ぼすので,いくつもの異なる実験手法を用いて調べることができる。

たとえば,X線回折法(第7,9章参照)によって原子問距離の動径分布関数を求めると,その系の中で分子がどのような構造をとっているかを推定できる。

また,分子間振動の振動数や振動数分布を調べて2分子あるいは3分子の相互作用の強さを求めるには,低振動数領域のラマンスペクトルを測定する(第7,10章参照)。

 しかし,これらの手法では原子の種類を区別しにくいので,たとえば水溶液のように2成分以上を含む液体中での相互作用を詳しく調べるのは難しい。

原子や分子を区別するためには,質量分析法を用いることができる。

すなわち,液滴の流れを真空中に作り,それを瞬間的に断熱膨張させることによって数個から数百個の分子集団(分子クラスター)にまで分解する。

そのクラスターを質量分析すれば,分子組成が求められるので,液体の中で強く相互作用しあって高次の集合体構造を形成している単位集団に関する情報が得られる。

このような様々な手法を組み合わせて,すべての観測結果を矛盾なく説明できるモデルが提案され,さらにそのモデルについて理論的な検討が加えられて,液体中の分子間相互作用の具体的な描像がしだいに解明されるようになってきた。

 身近な例として,ウィスキーのような水とアルコールの混合溶液系がある。ウィスキーはエタノールが体積で40%,その他の大部分は水である。

この試料を断熱膨張させて得られたクラスターの質量スペクトルを調べた結果,純粋な水のスペクトルとは全く異なる次のような特徴が明らかになった。

 1)ウィスキーの中には,エタノール分子だけが何個か集合したクラスターが多く含まれている。

 2)質量が大きくなると,エタノール分子の集まりに水分子が何個か付加したクラスターが増してくる。

 3)クラスター中のエタノールと水の組成比には一定の規則性がある。

 1)のようなエタノール分子同土の会合は水が存在するときに顕著に現れ,エタノールが1%以下の希薄な条件でも顕著に起こる。

炭化水素の鎖であるエチル基同士が集合し,それが水分子の作る強いネットワークで囲まれるために安定となる。

この現象は疎水性相互作用とよばれている(以上放送教材参照)。

 このような水環境の中での炭化水素鎖の会合は,生体系ではきわめて本質的な意味を持っている。

蛋白質や細胞膜,あるいは遺伝子の構造を決定する最も重要な分子間相互作用は疎水性相互作用である。

このような相互作用は水によって発生するので,水の構造に大きな影響を及ぼすイオンの存在も,生体系には重要な因子となる。

(2)超臨界流体に見られる分子間相互作用(パターン14-1714-18)(ムービー14-7

 本章の1.で述べたように,気体を希薄な状態から加圧すると分子はしだいに互いの引力を感じはじめ,平均的な分子間距離が分子間ポテンシャル(図14-3)の谷底に相当するぐらいまで減少して,しかも分子の持つ平均エネルギーが小さいときには,気体分子は凝集を始め,気液共存の状態となる(図14-1)。

この状態から系の温度を徐々に上げていくと,分子が持つ平均の運動エネルギーが大きくなるので,分子間の引力の谷から逃れて気相を飛び回る分子の数が増加する。

やがて,分子の平均的なエネルギーが分子間引力ポテンシャルの深さ(図14-3の谷の深さ)と同じ程度になると,分子は気相と液相を頻繁に往復するようになり,気体と液体の区別がつかなくなる。

この状態が図14-1に示された臨界点である。

いくつかの分子について,分子間力をレナード‐ジョーンズの式で表したときの引力の谷の深さ((14.3)式の定数εをボルツマン定数で割って有効温度として表したもの)と臨界温度とを表14-1に比較している。

この両者は厳密に比例しているわけではないが,平行関係にあることは明らかである。

 臨界点付近の流体は,見かけは均一でも,ミクロに見ると分子の密度が非常に不均一の状態になっている。

この状況は,臨界点に近づくほど顕著になり,臨界点のごく近傍では密度の揺らぎがきわめて大きくなる。

光の波長ほどの大きさの領域ごとに粗密ができるようになると,強い光散乱が起こる。

その現象を実験的に見ると,臨界温度より低い温度で気相と液相が共存する系では,気体と液体を分けるメニスカスが良く見えているが,温度を上げて臨界温度に近づけると,メニスカスはぼやけて,あたかも夕焼け空を見るように透過光は黄→赤と変化し,ついには真暗になる。

これは波長の短い光から順に散乱されるためである。臨界温度を過ぎてさらに温度上昇を続けると,流体は再び透明になるが,メニスカスは全く見えなくなる(以上放送教材参照)。

 超臨界流体は有機化合物などを溶解する能力が大きいので,抽出用の優れた溶媒として活用され,物性と反応の二つの視点で,また基礎科学と応用の両面から,多種多様な研究が活発に進められている。

(3)ラングミュア・ブロジェッ卜膜に見られる分子間相互作用(ムービ14-8

 水になじみやすい親水基と油のような物質になじみやすい疎水基を分子の両端に持つ化合物(ステアリン酸など)を両親媒性化合物という。

この化合物を清浄な水面上に単分子膜として展開し,一方から加圧すると,凝縮膜が形成できる。

これを金属やガラスなどの固体基板上に移し取って作った何層も積み重なった凝集膜を累積膜,あるいはラングミュア・ブロジェット(LB)膜という。

この手法を用いれば比較的任意に分子の積層体を作ることができるので,基礎から応用に至る広い分野で注目を集めている(図14‐12)。

 たとえば,界面現象や生体内の層状組織の研究などのほか,機能性両親媒性物質のLB膜で光集積回路,光電変換装置,ホトクロミック素子などを作ろうとする研究が進められている。

 このLB膜の中に色素分子(ゲスト分子)を分散させると,分子はステアリン酸(ホスト分子)に囲まれた分子空間(ケージ)の中に閉じ込められ,場所(サイト)によって1個から3個以上にわたる分子が閉じこめられる。

その結果,溶液や気相などとは異なる特殊な分子間相互作用が現れる。

たとえば,ピレンを含むLB膜に紫外光を照射し,ピレンが光を吸収して電子励起状態(S1)に移ると,(ふつうの状態では分子間に反発力が引力より勝っているが)引力が反発力を上回るようになり,互いに近づいて一種の分子間錯体(二量体)を作る。

この二量体はピレンが励起状態にあるときにだけ作られるので,励起二量体(エキシマー)とよばれ,通常,単量体の蛍光よりも長波長の蛍光を発する。

 ここで時間幅の挟い(たとえばpsすなわち10-12秒くらいの)パルスレーザー(第13章を参照)でLB膜を照射したとする。ピレンはS状態に移ったのち,その分子空間(ケージ)の中に存在する別のピレン分子に近づいてエキシマーを作る。

その運動に伴って蛍光スペクトルは時々刻々に変化し,単量体の蛍光からエキシマーの蛍光に移っていく。

このように蛍光スペクトルが変化する速度を調べることによって,LB膜の中での分子の運動のしやすさ,すなわちLB膜の「硬さ」「柔らかさ」,ピレンの分子間相互作用の大きさなどがわかる。

パルスレーザーを用いた時間分解スペクトルの実験は,分子間相互作用を明らかにする上で重要である(以上放送教材参照)。

 近年のレーザー技術の進歩によって,これらの研究は急速な進歩を遂げた。LB膜を利用した様々な応用が考案されている。

たとえば,異なる色素分子を含む単分子膜を積み重ねてLB膜を作り,分子間相互作用の一種である励起エネルギー移動の現象を起こさせると,光励起が一方向に伝達する素子を作ることができる。

ここでさらに,光の波長によって正反応あるいは逆反応が起こるフォトクロミック分子を組みこむと,光励起の伝達がもう一つの光によってスイッチされ,3端子卜ランジスターの働きに類似した素子を作ることができる。

この系は光コンピューター用の素子として使うことが考えられている。

おわりに

 本章で取り上げた分子間相互作用は,人間の世界にたとえれば「個人から社会へのつながり」に相当する。

原子核と電子が担っている正負の電荷の静電的な相互作用が基本となって,原子あるいは分子はある程度まで近づくと互いに相手を分極して引き合う。

これがファンデルワールス引力の主な原因である。また水素結合のように,電荷の一部が一方の分子から他方に移動して,それを契機とする強い「電荷移動

相互作用」が現れ,特徴的な化学的性質の原因となる場合も多い。

これらが分子間引力の主な原因である。

原子あるいは分子がさらに接近して互いに触れあうようになると,こんどは量子力学的な相互作用に基づく強い反発力が働き,その力が原子・分子に固有の「大きさ」を与える。

上記にあげたいくつかの実例が示すように,分子間相互作用の大きさには分子あるいは分子を構成する原子または原子団の個性が強く反映されている。

分子集合体の構造と性質は,量子化学の実験と理論を使うことにより詳細に解明できる。

 それぞれ身の回りにある様々な分子集合体には,どんな独特の分子間相互作用が存在するのだろうか?

またその相互作用は実際どのように活用されているのだろうか?読者各自の検討にお任せしたい。

 本章の執筆に当たって,分子科学研究所の西 信之教授,京都大学理学部の梶本興亜教授,北海道大学工学部の山崎巌教授,東レリサーチセンターの中村雅一博土から資料を頂いた。

演習問題

問14‐1:ファンデルワールス方程式について,定数として,グラフ用紙に下の関数を描け(Lは体積の単位リットルを表す)。

(q14.1)


横軸にモル体積(ある温度と圧力のもとで気体1molが占める体積)V,縦軸に圧力Pをとり,温度T=590,620,650,680,710 Kのそれぞれの場合のPとVの関係を表す線を描く。Vの範囲はから,Pの範囲は0 atmから400 atmとせよ。それぞれの温度で20個ほどの点でのV,Pを計算して描く。変化の大きいところでは多くの点で計算を行うとよい。

 この関数は与えられた温度での実在気体の圧力と体積の関係を,かなり良く近似する関数である。定数aとbの値は,水に対するものである。

問14‐2:上の課題で描いたグラフから,それぞれのTで,Pが与えられたときに許されるVの値(すなわち,式(q14.1)がVを未知数とする方程式を表すと考えたときの実根)の数はいくつになるかを場合分けしてまとめよ。またこのことは,物理的にどのような意味を持つかを考えてみよ。

問14‐3:上記のファンデルワールス方程式を変形して,Vに関する3次方程式を作れ。この式が3重根Vc(臨界体積)を持つとき,その気体の臨界状態を表す。そのときの臨界温度をTc,臨界圧力をPcとして,a,b,R,Tc,Pc,Vcの間に成立する関係式を導け。また,それらの式からa,bを消去すると,物質によらず

(q14.2)


という関係式が得られることを示せ。(多くの実在気体ではこの比はおよそ0.29となり,0.375とは厳密には一致しないが,ほぼ一定値となっている。)

(ヒント)臨界点でのVに関する3次式=という等式を立てて,の係数を等置する。

問14‐4:食塩(塩化ナトリウム)の結晶が水に溶けるとき,水の分子はどんな役割を果たすかについて考察せよ。(ヒント)液体の水の25℃における誘電率は78.5である。