第15章−量子化学の最前線

 原子・分子の世界で起こる現象は意外性に満ちている。

研究者は量子化学の実験と理論の多様な方法論を駆使して分子に働きかけ,それらの不思議な現象の原因を探り,そこで獲得した知識を基礎として,さらに未知の物質を創造し新しい個性を発現させるための戦略を考えながら研究を進めて行く。

その一部の例を前章までに説明してきた。

本章では,まず,現代の科学・技術の分野で学問的にも応用的にも注目されている物質系の中から,五つの実験的研究例を選んで紹介する。(パターン15-1ムービー15-1

すなわち,数個から数百個程度の数の原子あるいは分子が集まって構成されるクラスター(第14章4.参照)の構造と性質について,第1節でやや詳しく説明する。

続いて第2〜5節では,固体物性に関係するテーマとして,触媒表面,液晶,有機半導体,有機超伝導体の構造と物性に関する研究を取り上げて,要点を説明する。

前章では,分子間相互作用をおもに「分子から分子集合体へ」という視点で考えたので,本章では反対に,おもに「分子集合体に現れる分子の個性」という視点で考えてみる。

そのあと,理論の立場から見た量子化学および関連分野の現状と将来について概観する。

1.原子・分子クラスターの構造と性質(パターン15-2)(ムービー15-2

 自然科学あるいは工学の分野で,最近10年あまりの問に最も目ざましい発展を遂げたテーマをいくつか選ぶとすれば,「クラスターの化学」は疑いなくその一つに数えられるであろう(クラスターはマイクロクラスターともよばれている)。

この分野の研究が様々な学問領域でこれほど関心を集めているのは,クラスターが気体・液体・固体・表面に加えて「新しい相」の一つとみなされ,ミクロの系(原子・分子)とマクロの系(モルの単位で数えられるほど多数の原子・分子の集合体で,凝集系またはバルクともよばれる)とを結ぶ「連絡橋」の立場に位置づけられるからである。

新しい物質系に向けての量子化学による挑戦において,このテーマが最前線の重要な一部を占めるのは当然といえよう。

(1)クラスターの種類(パターン15-3)

 一口に「クラスター」といっても,中身はきわめて多様であり,生成法も多様である。構成単位が気体物質の場合には,適当な圧力をかけた容器から細いノズルを通して真空中に吹き出してビーム(図14-2参照)にする。

揮発しやすい液体または固体物質では常温または高温で蒸発させ,揮発しにくい物質では強いレーザー光を試料表面に照射して蒸発させ,いずれもへリウムガスなどの流れに混ぜてノズルから吹き出すことによってクラスタービームとすることが多い。

(a)構成単位を考えると,希ガス,金属,非金属元素の原子から成るクラスターが数多く研究対象とされている。それぞれ構成単位の電子構造の差を反映して,特徴的な構造,物性,反応性を持つことがわかってきた。(パターン15-3

また,分子についても,二原子分子のクラスターをはじめ,かなり多くの原子数を持つ多原子分子からなるクラスターも研究対象とされている。

分子では,電気的に極性(双極子モーメントを持つ)か非極性(持たない)かによって性質に大きな差が現れる。

単一の原子または分子から構成される純クラスター(分子でいえば単体に相当する)のほかに,異種の粒子が混在する混合クラスター(化合物に相当する)もあり,後者については,ほとんど未開拓の分野が残されている。

例えば最近,2種以上の金属原子から構成された「合金クラスター」の物性あるいは反応性が興味ある研究対象となっている。

(b)構成単位となる粒子の数(サイズ)に注目すると,2〜3個の小クラスターから顕微鏡や肉眼で見えるような「微粒子」とよばれるマクロの物質まで,20桁ほどの差がある。

気相のクラスターに関する分子レベルの研究に関していえば,現状では数個からたかだか数百個の粒子数を持つ系を対象としていることが多い。

しかし,サイズが20〜30個の小さいクラスターでも,バルクの性質(たとえば電子物性)に極めて近い性質を示す例も数多く知られている。

特定のサイズだけを持つクラスターを選別したり,サイズがよく揃ったクラスター・ビームを作り出す技術も開発されつつある。

(c)電荷に注目すると,中性のクラスターと正または負に帯電したクラスターイオンに分かれる。クラスターの検出と定量には質量分析法が最も適しているので,クラスターイオンの研究が活発に行われている。

大きなクラスターでは,2価以上の電荷を持つ多価イオンも安定に存在できることがある。

(d)結合の性質を考えると,通常の分子あるいは凝集系に見られる結合のタイプに対応して,典型的なファンデルワールス結合で作られる系(第14章3.参照,たとえば希ガスのクラスター,図15‐1)のほかに,共有結合の系(例えば炭素あるいはケイ素原子のクラスター,図15‐2),金属結合の系(例えばアルカリ金属原子のクラスター,図15‐3),水素結合の系(たとえば水のクラスター,図15‐4)などが詳しく調べられている。

それぞれの構造と性質にはクラスター独特の個性が現れ,また粒子数によって著しく変化したり,クラスターの組成や生成条件の影響(たとえば有効温度,すなわちクラスターを構成する粒子の内部振動エネルギーの大きさ)など環境のわずかな差に強く影響されることも多い。

このような物質系の多種多様な個性は,クラスター化学が持つ最大の魅力の一つである。無数の分子が持つ多様な個性が,わずか100個ほどの元素の多様な組み合せに起因していることを連想させる。

(2)クラスターの特徴

 上記のように多種多様なクラスターに共通する特徴は,次の3点に要約できる。

(a)構造,物性,反応などの性質に,しばしば不規則な粒子数依存性が見られる。

クラスターの性質は,一般的には構成粒子(原子または分子)の性質からしだいに離れて,粒子数とともに凝集系の性質に近づき,ついにはそれに到達するはずである。

しかし,比較的小さい粒子数で不規則な変動が見られることがしばしばある。

例えば以下に述べるように,特定の粒子数(マジックナンバー)の所で特別に安定な構造となったり,異常な性質を示したりする。粒子数が奇数か偶数かで性質が交互に変化することもある。

 たとえば,ArやXeなどのファンデルワールスクラスターを質量分析して原子数分布を求めると,13,55,147などのマジックナンバーが現れる(図15‐1)(パターン15-4)。

それらの原子数ではちょうど正二十面体構造が作られるので,その原子数で特に安定な構造をとっていると推定される。またNaなどのアルカリ金属クラスターでは8,20,40,58,92などのマジックナンバーが現れる(図15‐3)(パターン15-5)。

それらは殻モデル(一様な正電荷を持つ球の中を3s電子が自由に運動すると考えるモデル)で説明できる。水のクラスター正イオンでは21に顕著なマジックナンバーが現れ,理論的にもH3O+を取り囲む正十二面体構造の安定性によるとして説明されている(第14章5.)。

 クラスターの反応性にもマジックナンバーが現れる。

たとえば,鉄原子のクラスタービームに水素分子を吹き込むと,17付近の原子数で反応速度定数が急に2桁以上も低くなり,すぐに回復して,23以上では固体の鉄表面での水素吸着の速度定数とほぼ等しくなる(図15‐5)(ムービー15-4)。

この原子数依存性はイオン化エネルギーの粒子数依存性と対応し,クラスターの電子的性質と反応性との密接な関係を示している。

(b)表面に存在する粒子の割合が多い。

粒子数が数十のクラスターでは,大多数の粒子がクラスターの表面に露出している。

球状に固まったクラスターでは,粒子数がおよそ103個のときに全体のほぼ半数の粒子は表面にあり,106個になっても数%が表面に出ている。

上記の金属クラスターの反応性の例に見られるように,触媒化学に関連する研究の発展が期待されている。

(c)一般に,弱い結合力で作られた柔らかい物質系である。

そのために,幾何学的な変形に対する系の安定性を表すポテンシャル曲面(第7章参照)の形は極めて複雑で,粒子数の比較的小さい原子クラスターでさえ多くの極小点(準安定な構造,すなわち異性体)を持つことが多い。

粒子数の大きい分子クラスター(特に混合クラスター)では,曲面はさらに複雑である。

安定構造は粒子数によっても異なる(たとえば,中性の炭素クラスターでは,原子数が10までは鎖状が安定で,それ以上では環状が安定である(10では両方が共存する)といわれている)。

また,結合力が弱いために,クラスターの内部では様々な大振幅運動が起こっている。

たとえば,分子クラスターに赤外光を当てて分子内振動を励起すると,その振動エネルギーは分子間振動に伝わってクラスターの解離が起こる。

その有様をパルスレーザー(第13章参照)を用いて時間的に追跡することもできる。

(3)炭素原子クラスターの構造と反応(ムービー15-3

 炭素は,宇宙空間に最も豊富に存在している元素の一つである。

またわれわれの身近なものはすべて炭素からできているといっても過言ではない。炭素が宇宙でどのように生成したか,あるいは,炭素がどのようなメカニズムで地球上に蓄積されてゆき,生命や生物の進化が可能となったか,という疑問は,昔から多くの科学者の関心を集めてきた。

ごく最近まで,炭素の安定な固体はダイヤモンド,グラファイトと無定形炭素だけであると考えられていた。

ところが1985年にグラファイトのレーザー蒸発によって作った原子ビーム中にC60が安定に存在することが確認されてから「フラーレン(五角形12個といくつかの六角形を組み合わせて構成される中空の閉じた立体構造を持つ炭素原子クラスターの総称,図15‐2)の化学」が誕生し,多くの研究者を魅惑している。(パターン15-615-7

当初は試料が微量しか得られなかったが,1990年に炭素棒のアーク放電で作った「すす」から有機溶媒で抽出し分離精製する技術が開発され,試料がマクロの量で得られるようになった。

 C60は正二十面体の頂点を切り落としたサッカーボールの構造を持ち,直径はおよそ7.0Åで,r(C‐C)=1.40Åとr(C‐C)=1.46Åの2種類のC‐C結合を持つ。

この分子については気相および固相で様々な物理化学的測定が行われ,多くの特異な性質が発見された。

たとえば,球の内側の分子空間に金属原子を入れた錯体(金属内包フラーレン)が発見され,また球の外側に化学反応で種々の置換基を付加した誘導体がたくさん作られている。(パターン15-8

また,アルカリ金属化合物が超伝導体や良質の半導体になることが知られ,新しい炭素材料として注目を集めている。

 また,上記のすすの中からは70,76,78,82,84,90,96などの炭素数を持つフラーレンも(C120程度まで)生成・単離され,それらの構造・性質・生成機構などについて詳しい研究が進められている。

さらに,数十μmの長さをもつ円筒状のフラーレン関連の炭素物質(カーボン・ナノチューブ)も多量に生成されるようになった。

これはグラファイトシー卜を巻いたような直径0.8〜2nmの炭素チューブで,両端はフラーレンのような構造で閉じている。

この新しい炭素材料の応用研究も始められている。