6.理論量子化学の可能性と目標

(1)量子化学理論と計算技術の発展(パターン15-22)(ムービー15-8

 量子力学が確立した直後1929年に,ディラックは「化学の全分野を数学的・理論的に説明するのに必要な基礎的な物理法則は完全にわかっている。

困難なのは,これらの法則を厳密に適用しようとすると,複雑すぎて解けないような方程式になってしまうことだけである」という意味のことを述べ,「分子という複雑な系の本質を膨大な計算をしないでも説明できるような近似法を開発することが望ましい」と指摘した。

この目標に向かって,重要な分子系の波動方程式を精度よく解き,それを化学の様々な問題に応用するための方法論の開発を目指して限りない努力が続けられてきた。特に分子軌道法(第4章以降)は中心的な役割を果たした。

 厳密な計算の対象となる分子の大きさについていえば,たとえば1959年ごろには電子数およそ20個の系が限界と予想されていた。

それが1974年には200〜400電子系となり,さらに四半世紀を経過した現在では,それよりはるかに複雑な分子についても,信頼性の高い計算が比較的短時間に実行できるようになった。

また,以前は分子の電子励起状態を定量的に計算するのは不可能に近かったが,最近では優れた理論が作られ,計算法が整備されている。

 量子化学の理論的研究がこのように発展した原因は,いうまでもなく理論および計算技術の著しい進歩にある。

すなわち,「解けない問題を解けるようにする」ための適切な近似計算法を見いだす知恵と,電子計算機の優れた性能がそれを可能にした。

計算速度と信頼度が高まるにつれて,理論と計算を専門とする研究者の数は急増し,また量子化学を専門としない研究者でも使いやすいプログラムが普及するようになったために,需要はさらに拡大して,研究の質と量は加速度的な発展を続けている。

また量子化学のプログラム・ライブラリーやデータべースについても,国際協力を含めた様々な活動が多数の大学や研究機関で活発に行われている。

(2)量子化学計算の意義と役割

 ある分子や分子集合体の構造や性質を量子化学の計算によって知ることには,どんな意義があるのだろう。

クールソンはかつて「“ある分子の結合に比べて別のある分子の結合が格段に強いのはなぜか”という問いに対して“計算してみたらそうなった”というだけでは,われわれは何も化学を学ばない。

単なる計算ならば,自然がそれを完全な形で実行している」という意味の警告を発した。

ウィグナーも,「波動方程式をまじめに計算したら,おそらく実験結果とよく一致する結果が得られるであろう。

しかし,われわれはそれからいったい何が学べるのだろう。

われわれが計算に期待するのは単なる精密な計算結果だけでなく,その物質の波動関数のふるまいに関する生きた姿をわれわれに示し,その物質が持つ個性の本質について簡単な概念を教え,たとえば構成元素の違いによって物質の個性がなぜ変わるのかを理解させることである。

その意味で,計算の役割は純粋に科学的というより教育的なものであり,同一の現象をいろいろと違った見方で説明することも可能なはずである」という意昧の注文を出した。

これらは1950年代のコメン卜であったが,現在の量子化学はこれらの問にどのように答えているのだろう。

 「実験結果との一致に満足しているだけではいけない」とはいっても,量子化学計算と実験とをつきつめて比較する研究は,理論的方法論の進歩に大きく貢献し,また実験的方法論の改良にも強い影響を与えてきた。

その好例を水素分子をはじめいくつかの簡単な分子の電子状態の研究に見ることができる。

実験と理論,それぞれの技術が改良されるにつれて,一致したと思われた結果に矛盾が現れ,両者が交互に先導しながら精度をつぎつぎと向上させてきた。そしてその技術が,より複雑な系への応用につながった。

 現状では,量子化学計算は「計算機を装置とする実験」とみなされ,実験と相補的な方法論として化学に関連するほとんどすべての研究において重要な役割を担っている。

量子化学計算には,実験を先導するというもっと大切な役割が期待されている。

すなわち,既成概念の延長線上にない革新的な概念と研究のアイディアを提起したり,研究対象と実験条件の設定(いわゆる分子設計)について指針を与えたりする「知恵の泉」となることである。

 以上をまとめると,量子化学理論の最も重要な役割は,(a)化学の基礎概念とモデルを創り上げて提示すること,そして(b)実験と相補的に協力して,化学の基本となる定量的情報を提供することである。

これらについて以下に述べる。また最後に二つの実例を述べる。

(3)化学の基礎概念の構築

 理論化学の重要な使命は,化学現象に内在する基本原理を解明し,それを化学者にわかりやすい形で提示することである。

そのような原理の最も良い例は,福井謙一教授らのフロンティア軌道理論(パターン15-2315-24)であろう。

この理論は,「化学反応の起こり方を規定しているおもな分子軌道は,分子の外側にあって高い電子エネルギーを持つHOMOやLUMO(第6章参照),いわゆるフロンティア軌道であり,反応の経路と選択性は,その反応に関与する分子の間でフロンティア軌道がどのように重なり合うかによって決まる」という原理である。

この考え方は,特にウッドワードとホフマンによって有機化学反応の大原則としてまとめられ,それまでに知られていた多数の化学反応を統一的に説明するとともに,多くの新しい反応を発見するための指導原理として大きな役割を果たした。

このように,自然現象をより良く理解し予測するための「新しい概念」は,その理論が量子力学や統計力学など自然科学の基本をなす理論体系に基づいて構築されたとき特に高い普遍性を持つ。

福井・ウッドワード・ホフマンの理論がこれほど強力なのは,分子軌道法というしっかりした理論体系に基づいて構築されているからである。

 図15‐14は,福井教授と共同研究者がフロンティア軌道理論を初めて発表したときに用いられたもので,いくつかの芳香族炭化水素の求電子置換反応に対するフロンティア分子軌道の電子密度を示している。

矢印はハロゲン化反応や酸化反応が実際に起こる位置を示したもので,反応は確かにフロンティア電子密度が最も高い位置で起こっていることがわかる。

周知のように,日本で初めてのノーベル化学賞は,福井教授がこの理論により化学反応の経路を解明した研究業績に対して与えられた。

(4)適切なモデルの創出

 化学が対象とする原子・分子の性質には,量子化学を厳密に適用して克明に解明できるものも多いが,大部分の場合には分子が大きすぎたり現象が複雑すぎたりして,そのまま応用することは容易でない。

しかし,量子化学者は複雑だからといって諦めないで,直感を働かせて問題の核心をつく要素を抜き出し,それをモデルに巧妙に取り込むことによって「料理できる」形に変えてしまう。

その良い例は,分子軌道法で使われている様々なモデルである。特に固体やその表面での反応,溶液,高分子,蛋白質などの問題は,適切なモデルを作ることが研究の成否を決める。

 たとえば,金属の表面は重要な触媒反応の場である。(パターン15-25

これを少数の表面原子の小さな塊(クラスター)と反応分子の相互作用だけで近似するモデルが有効に使えることもあるが,つねに良いモデルになるとは限らない。

その理由は,固体としての性質,とりわけ金属全体に拡がっている自由電子の役割が無視されてしまうからである。

この点をうまく取り入れたモデルを用いてはじめて,金属表面での触媒作用を詳細に研究できる((6)参照)。

(5)理論と実験の協力

 現実の実験では,装置,試料の純度,測定方法などに起因する制約によって,研究対象と結果の精度にかなりの限界がある。

計算についても,計算機や方法論に起因する精度の限界がある。

それらの長短を互いに補うことによって,両者の密接な協力関係が成立する。

化学の長い歴史の中で,両者の協力が現代ほど密接に行われている時代はない。実験に対する理論の強みは,まず(a)実験だけではつきとめにくい「なぜそうなるのか?」という問が出されたとき,理論によれば「種あかし」の可能性があること,(b)実験では実現できない,あるいはしにくい状況を実現してみせられることである。

 実験的研究(特に新しい分野を切り拓くような実験)では,最も知りたい秘密が実験技術の限界のためにべールに隠されていることも多い。

また「なぜか分からないが,結果的にうまくゆく」ということも多い。

そのような場合には,次の実験を手探りで設計するしかない。ところが,理論計算によれば波動関数を手に入れることができるので,入力と出力の間に原理的にはブラックボックスがない。

したがって,「なぜか?」という問に対していつでも何かの答を与えることができる。ひとたび原理が解明できれば,その原理に基づいて新しい実験と計算を計画し,次のステップに進むことができる。

 実験で手が届かない問題に対する理論の援助については,実験結果を解析するとき実験では求めにくい一部の定数を計算値で置き換えたり,爆発や毒性,不安定性などの制約から対象にできない(あるいは難しい)物質について,計算結果を「実験値」の源としたりすることがあげられる。

また星間空間に存在する分子の電波分光の研究では,地上の実験室では生成できない分子の電子構造とスペクトルが量子化学計算によって予測され,スペクトルの帰属に重要な役割を果たしている。

また,ごく短い時間に終結する化学反応を正確に追跡することは,現在の分光技術でも難しい。量子化学計算はこのような場合にもきわめて有効である。

また,エネルギー的に不利な反応経路は実験的には走らせることができないが,理論ではその経路を実際に走らせて,それがなぜ不利な経路なのかを解明できるので,その要因を取り除く方法を考案して有用な反応を開発する道も開かれる。

(6)研究例−1:銀表面上でのエチレンの部分酸化反応(パターン15-26

 金属触媒の表面と分子ABの相互作用は図15‐15(a)のように表すことができる。

 表面には無限個といってよいほど多数の原子が並び,それらとABが近づいたときの相互作用を理論量子化学で計算することは容易でない。

ところが実際には,ABはたとえば酸素分子とかエチレンのように比較的小さい分子なので,直接相互作用できる表面原子の数はそれほど多くない。そこで,直接相互作用している原子だけを表面から切り出して,少数の金属原子クラスターとAB分子とを図15-15(b)のように相互作用させることによって,実際の金属表面での相互作用を代用させようとする考え方がある。

このモデルは金属と吸着分子との間に電子移動が少ない触媒反応系(たとえば金属表面での水素分子の解離吸着反応や水素化反応)に対しては比較的有効であり,多くの研究がなされている。

 しかし金属表面上での酸素分子の反応のように,表面と吸着分子との間の電子移動が大きい場合には,金属に特徴的な固体全体に拡がる自由電子の効果を無視できない。

そこで,クラスター全体を金属の電子の海の中に浸し,たがいに電子交換ができるようにする(図15-15(c))。このモデルによれば,金属電子が吸着分子に無理なく移行し,その電子状態を実際の系に近く表現することができる。

 一例として,銀を触媒とするエチレンの部分酸化反応

+O → CO+O

に伴うエネルギーの変化を図15‐16に示す。

 出発物質から生成物に至るエネルギー準位は滑らかで,特に大きなエネルギー障壁もなく進行することを示している。

これに対して,下の図(銀の触媒表面が存在しない場合)には高いエネルギー障壁が存在し,反応が進行しないことがわかる。

この二つの図の比較から,銀表面の触媒作用が理論によって良く表現できていることがわかる。

触媒反応は工業的にきわめて重要なので無数の研究がなされているが,反応機構の本質にはまだ謎に包まれた部分が多い。

理論量子化学の今後の活躍の場が大きく広がっている。

(7)研究例−2:光合成反応中心における電子移動過程(ムービー15-8

 植物の光合成反応は,地球規模のエネルギー生成に関わる重要な化学反応であり,その鍵となるのは植物の細胞にある光合成反応中心における光・電子過程である。図15-17は光合成反応中心の機能を支えているポルフィリンという色素の配列を示している。

 この一連の反応の中で,上にあるPという色素が光エネルギーを吸収して励起状態になり,そのエネルギーを利用して電子(e-)が長距離を移動することが重要な過程であることがわかっている。

このとき,電子は矢印で示したように右側の径路だけを進み,左側の径路は通らないことが実験的に知られているが,その理由はわかっていなかった。

また,光合成反応中心には蛋白質や水が多く存在しているが,その役割も解明されていない。

 この電子移動過程の本質は,励起分子の電子状態を精度よく記述できる理論を用いた最近の研究によって解明された。

すなわち,Pが光エネルギーを吸収して電子励起されP*になると,その励起電子はBを経てHに高速で移動する。

計算の結果によると,励起電子は左側の径路より右側の経路の方にはるかに流れやすく,電子が直接に基底状態に失活する確率も右側の経路で小さいことが定量的に示された。

また,光合成反応中心におけるポルフィリン化合物の空間的な配置を計算してみると,右側の方が左側より接近した位置にあり,それがこの差の原因と考えられること,蛋白質の直接的な効果は小さいこともわかった。

このような機構を実験的な方法だけで解明するのは難しいが,理論的には上記のように実行できるようになった。

生命現象の謎は,今後の理論的研究によってさらに次々と明らかにされてゆくであろう。