7.おわりに

(1)ノーベル賞から見た量子化学の発展史(ムービー15-9

 量子力学の確立および発展に対して実験的あるいは理論的に大きく貢献した研究者の多くは,第2次世界大戦の終わりごろまでにノーベル物理学賞をつぎつぎと受賞した。

それらの業績はここに書き尽くせない。戦後の物理学賞の中にも,量子化学に大きなインパクトを与えた業績は多い。

たとえば,ブロッホとパーセル(1952)による核磁気共鳴法の開発,タウンズら(1964)によるレーザーの発明,シーグバーン(1981)による光電子分光法の開発は,いずれも量子化学および関連分野に著しい発展をもたらした。

 ノーベル化学賞を受賞した業績の中で,量子化学の発展に大きく貢献したものを挙げてみよう。

大戦以前では,デバイ(1936)による双極子モーメン卜とX線・電子線回折の理論的研究がある。

この業績は分子構造決定の方法論を発展させる原動力の一つとなり,それらの方法論に基づいて行われた多くの実験的研究は,ポーリング(1954)により「化学結合論」の名著に集大成された。

量子化学の理論では,分子軌道法を確立して化学結合および分子の電子構造に関する基礎的研究を行ったマリケン(1966)と,それを化学反応過程の理論的研究に発展させた福井謙一教授およびホフマン(1981)が受賞した。

また最近,マーカス(1992)が化学系における電子移動過程に関する研究により受賞している。

分子分光法の実験ではノーリッシュとポーター(1967)が短い光パルスを用いて高速光化学反応を追跡する方法論を開発し,さらにへルツベルグ(1971)が類似した方法を用いて分子を光分解しフリーラジカルの電子構造と幾何学的構造を分光学的に精密に決定して,ほぼ同時期に受賞した。

化学反応素過程の動力学を分子レベルで明確に理解する道を開いた研究として,化学発光スペクトルの測定と理論とを組み合わせて反応エネルギー収支を解明したポラニーと,分子ビーム衝突の方法論を開発したハーシュバックとリーが1986年に3人で受賞した。

最近(1996年)では,カール・クロトー・スモーリーによるレーザー光イオン化質量分析法に基づくフラーレンの発見が授賞の対象となった。

このほかには,X線回折による結晶構造解析で大きい分子(特に生物関連分子)の構造を決定する方法論の開発とその研究成果に関する受賞例が多い。

(2)物理化学の現状と次世紀への展望

 国際純正・応用化学連合(IUPAC)は,世界の主要な国々が加盟している化学者の組織である。

その物理化学部会の資料によると,現在および今後の物理化学の重点研究分野の第一に量子化学があげられている。

その内容は多岐にわたっているが,特に理論面では「計算法の開発と分子および分子集合体の性質(構造,物性,反応性)の予測」など,実験面では「高速反応の追跡による短寿命化学種の解明,クラスターと固体表面の解明」などの重要性が強調されている。

前者については,いうまでもなく計算機と計算法の発展が今後の鍵となるであろう。

同様のことは後者についてもいえるが,さらに実験技術的には新しい光源(レーザーやシンクロトロン放射光など)の開発も一つの鍵となるであろう。

これらが分子分光法をさらに発展させ,それを刺激として量子化学に大きな進歩をもたらすことが期待される。

 クラスターの量子化学の将来性については上に述べた。ラジカルや分子イオンなど(特にそれらの励起電子状態)の実験および理論的研究がさらに発展すれば,化学の全領域はもちろん,関連する自然科学(たとえば生物学)および工学の広い分野に強い影響を与えるであろう。

一例だけをあげると,これらの物質は星間空間に存在する化学種として電波天文学の対象となっているものが多く,宇宙の起源,生命の進化などの研究とも深く関係している。

(3)自然科学における相補性

自然科学の研究に見られる「基礎」と「応用」,「理論」と「実験」,「簡単な系」と「複雑な系」の相補性についてはいうまでもない。

また,「究極の法則の探求」と「物質の多様な個性の探求」の対比については第1章に述べた。このほかに,注目すべき相補性として,「精密測定」と「たった一桁の測定」との対比がある。

ほかの精密科学と同様に量子化学の研究は,実験と理論の方法論を磨き上げ,物質の個性を極限の精密度で追究し,未知のミクロの世界に踏み込んで行く努力に支えられている。

すなわち,対象と条件を明確に規定し,正確な測定データを積み上げ,それらの僅かな差も見逃さないで原因を追究し,そこに新事実を発見しようとする。

科学史が示すように,自然科学における「大発見」のほとんどはこのような努力によってもたらされたものである。

しかし一方,既成の概念を打ち破って研究の構図に新しい座標軸を導入するような発想が,しばしば一桁のデータしか出ないような簡単な実験や,本質を見通した定性的または半定量的な理論から生まれることも事実である。

本講義で説明された量子化学の先導的な理論の中には,まさにそれに該当するものも多い。

優れた研究者は,顕微鏡と望遠鏡を両方の手に持って仕事をしているように思われる。

 本章の執筆にあたって,名古屋大学理学部の篠原久典教授,関 一彦教授,大内幸雄助教授,東京大学理学部の岩洋康裕教授,分子科学研究所の小林速男教授,京都大学工学部の中辻 博教授から資料を頂いた。