2.波動方程式: 考え方と使い方

(1)1次元1粒子の波動方程式(ムービー2-5

 物理学の法則はいくつかの基本的な仮定を前提としていることを前章で述べた。波動方程式も,いくつかの仮定に基づいて作られている。

量子力学でミクロの粒子の運動を考えるときの出発点は,まずその運動を「マクロの世界に存在する物体の運動と同じである」と仮定して,古典力学に従って運動方程式を作ることである。(パターン2-5

そのあと,以下に述べるいくつかの仮定に基づいて,その式を別の方程式に変換する。(パターン2-6

(a)仮定1:物理量の演算子表現

 まず最初の仮定1は,物理量を演算子で表現することである。

先ほど考えた1次元の粒子を再び例として考えよう。座標は,そのままをかける演算子で表現する。一方,運動量を微分演算子で表現する。

(2.26)


(2.27)



このような微分演算子による運動量の表現は,慣れない人には奇妙に思われる。

しかしこの一点だけを素朴に通り過ぎると,量子力学のほかの式にはもっと理解しやすいものが多い。

 上に求めた古典力学のハミルトン関数,すなわち1次元で運動している物体の全エネルギー(2.5)を上の仮定を用いて書き直すと,ハミルトン演算子は次のように導かれる。

(2.28)


(2.29)



この演算子はしばしば「ハミルトニアン]とよばれる。

(b)仮定2:固有値の意味

 次の仮定は,その演算子の固有値に関するものである。

この演算子をある関数に演算したとき,それが元の関数ψの定数E倍になったとする。

そのとき,「固有値はその粒子がψで表される状態となったときのエネルギーの実測値を表す」と考える。

(2.30)



この方程式は物理学で波の運動を表すためによく使われるもので,波動方程式とよばれる。

あるミクロの系を考えたとき,その位置エネルギーとその系が置かれている境界条件を与えると,波動方程式は数式的に,あるいは数値的に解くことができる。

以上を要約すると,ミクロの粒子が持つエネルギーは,

1) まずその粒子をあたかもマクロの物体であるかのように考えてハミルトン関数を求め,

 2)それを演算子の形に書き換えて「ハミルトニアン」で表現し,

 3)その固有値を求めることによって計算できる。

(c)仮定3:固有関数の意味

 仮定3はの固有関数についてのものである。

この関数は波動関数とよばれ,系の状態を表現する。

ψは一般には虚数単位iを含む複素関数で,その複素共役関数ψ*(その関数が虚数単位iを含んでいたら, iをすべて-iに置き換えた関数)との積

(2.31)



はψの絶対値2乗とよばれ,その粒子がψという波動関数で表現されている量子状態にあるとき,その存在確率を表すと考える(考えている関数が虚数単位iを含まなければ,は単純にその関数の2乗になる)。

たとえば,ψが図2-3のような形をしているとすれば,の面積は粒子がとの間の空間に存在する確率を表す。

確率であることから,波動関数ψには「一価・連続であり(すなわち,粒子がある場所に存在する確率はかならず一義的に定義でき),を定義された変数の全区間にわたって定積分したときには1になる(すなわち,考えている粒子は,その空間のどこかにかならず存在する)」という条件

(2.32)


がつけられる。

このとき,「波動関数は規格化されている」という。

以下に説明するように,ある具体的問題を解くときには固有関数に特定の境界条件がつけられるので,それを考慮に入れて波動方程式を解くと,エネルギー固有値に不連続性が現れる。

すなわち,「量子化されたエネルギー準位」が表現できる。

波動関数という概念はなかなか馴染みにくいが,下記の実例について学習すると,少しずつ身近に感じられるようになるであろう。

(d)仮定4:期待値

 仮定4は期待値に関するものである。

期待値とは,確率論で「ある抽選に参加する時,当たる確率と当たったときに貰える賞金の積」を表す。

すなわち,その抽選で確率的に期待できる賞金額を表す。

ある規格化された波動関数について

(2.33)



という定義された変数の全区間にわたる定積分を考えると,上記の「確率」という仮定によって,この積分は「エネルギーの期待値」を表すことになる。

もしその波動関数が固有値Eを持つの固有関数であれば,(2.30)‐(2.32)により

(2.34)


となる*2。

いままではハミルトン演算子に限って説明したが,これらの仮定は任意の物理量(たとえば運動量)を表す演算子についても適用される((2.59)参照)。

*2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

量子力学の仮定は上記のほかにもある。特に,波動関数の時間依存性に関して,

(2.35)


を満足するという仮定5がある。この仮定は,分子の光との相互作用による状態の遷移あるいは化学反応など,考えている系の状態が変化する現象を説明するときに基本となる重要なものである(第7−13章参照)。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(2)波動方程式の応用例1: 1次元の箱の中の粒子

 最も簡単な問題として,1次元の自由粒子の問題を取り上げる。(ムービー2-5)

(a)古典的エネルギー

 古典力学では,質量を持つ物体が長さLの線分()に沿って,力を受けないで自由に等速往復運動をしている場合に相当する。

箱の中では力は働かない(F=0)ので,(2.6)によりは定数であり,としてよい。速度をとすると(2.9)により

(2.36)


となる。

速度は任意に設定できるので,エネルギーは連続的に変えることができる。

(b)波動関数

 量子力学では,波動方程式は(2.30)により

(2.37)


で表される。

両辺に定数をかけ算して

(2.38)
(2.39)

と書き,波動関数ψに「粒子はこの箱の外に存在確率を持たない」という境界条件をつけると,

(2.40)


となる。

ψは連続なので,箱の両端でもである。すなわち

(2.41)


がこの方程式に課せられた境界条件となる。

箱の中での方程式の解は

(2.42)


である。

これが解であることは,この式を(2.38)に代入して2回微分してみるとわかる。

まず左端での境界条件から

(2.43)


となるので,

(2.44)


となる。

次に右端では

(2.45)


となる。

このsin関数がゼロとなるためには,sin関数の引数がπラジアンの整数()倍にならなければならないので,には

(2.46)

(2.47) *3


という条件がつけられ,波動関数として

(2.48)



が導かれる。

*3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 数学的にはの解もある。しかしとすると(2.48)から

(2.49)


となり,粒子の存在確率はの全領域でゼロになるので,物理的に無意味な解になる。またの解も単にψの符号を変えるだけなので,固有値も存在確率(2.31)も対応するの場合と等しく,独立な解にならないので,考慮しなくてよい。

 ψの係数Bは,規格化条件(2.32)から

  

(2.50)

という式で求められ,最終的に

(2.51)


となる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(c)エネルギー

 次にエネルギー固有値Eを求めよう。

(2.39)に(2.47)を代入すると

(2.52)


となり,は量子数の2乗に比例し,箱の長さの2乗に反比例することがわかる。

また,以上の計算をたどってみると,エネルギーに量子数が導入されたのは,位置エネルギーに課せられた境界条件に起因することがわかる。

 波動関数と,それから導かれる存在確率,エネルギーを図2-4,2-5に示す。

古典的な粒子の往復運動では,のいたる所で等確率である。

しかし,ミクロの粒子の運動では量子数によりそれぞれ特徴的な波動関数と存在確率の性質が見られる。

 すなわち,

1) ψの波長はに逆比例すること,

2) ψを箱の中央()で折り返してみると,が奇数のとき対称,偶数のとき反対称になっていること,

3) 存在確率がゼロとなる点が個存在すること,がわかる。

 ここで取り上げた「箱の中の粒子」の問題は,「自由電子モデル」とよばれて,共役二重結合系を持つ分子(たとえば有機色素)の電子スペクトルの解析などに重要な役割を果たしてきた(第8章参照)。

たとえば,上の(2.52)は共役系の鎖の長さと分子の吸収波長(色)との関係を考える上での指針となる重要な式である。

(3)波動方程式の応用例2: べンゼンの自由π電子モデル(ムービー2-7)

(a)波動関数とエネルギー

 もう一つの単純な応用例として,ベンゼンのπ電子系(パターン2-10)を考えてみよう。

この問題は第6章で分子軌道法を用いて詳しく説明されるが,ここでは「円環の中を運動する自由電子」という簡単なモデルを用いて,べンゼンがなぜ無色透明な物質なのかを説明してみる。

図2-6のように,π電子は炭素‐炭素結合の近くを運動している。

 ベンゼンの6角形の骨格を円環で近似してエネルギーを計算する。

ここでπ電子には力が働いていないと仮定しているのでとなり,波動方程式は「箱の中の粒子」と同様に

(2.53)


となる。

(2.54)


とおくと

(2.55)


と書ける。

この方程式は箱の中の粒子の問題とまったく同じであるが,異なる所は「電子が円環を一回りすると波動関数は元に戻る」という境界条件にある。

すなわち,

(2.56)


を入れて(2.24)と(2.54)を用いると

*4 (2.57)


(2.58)


となる。

したがって,エネルギー固有値は図2-7のようになる。


*4−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 例1の場合と同様に,量子数あるいはは電子の運動量に比例し,エネルギーが高くなると電子の動きが活発になることを表す。±の符号は運動の向きを表す。そのことは仮定2の考え方に沿って運動量の演算子を波動関数ψに演算すると確かめられる。すなわち,

(2.59)


であるから,運動量の固有値はとなる。ここで波動関数ψが表している電子の波の波長λを求めてみる。波の位相が2πだけ変化すると1周期に相当するから,

(2.60)


と書ける。(2.59)と見比べると,

(2.61)


となる。この関係はド・ブロイが1924年に物質波の考えを発表したとき提出した式

(2.62)


と対応している。すなわち,仮定1で式(2.26)の係数をと決めたのは,電子をド・ブロイの物質波と考えたことに相当する。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(b)分子による光の吸収と放出

 べンゼンには6個の炭素原子があり,6個のπ電子を持つ(第6章)。

これらの電子はパウリの原理(本章3節参照)に従って下の準位から順に2個ずつエネルギー準位を占める。

±1にはの二つのレベルがあるので,このモデルで分子のエネルギーが最も低くなる(分子が最も安定になる)ような電子の入り方は,6個の電子がとの準位にそれぞれ2個ずつ入った状態である(図2-7)。

この電子配置を電子基底状態とよぶ。

この分子に光が当たると,分子はエネルギー準位の差に相当する波長の光を吸収して電子励起状態に遷移する。

この関係は「ボーアの振動数条件」とよばれ,仮定5(2.35)に基づいて,量子力学の基本法則を用いて導くことができる。

すなわち,真空中の光速をとすると,光の波長λは次式で計算できる。

(2.63)


(2.64)


(c)吸収波長の概算

 この光の波長を求めよう。

付録Aに記載された定数をこの式に代入すると,波長はおよそ212 nmと概算される。

こんな素朴なモデルの割に,この推定値は実験のスペタトルとかなりよく対応している。

人間の目に感じる光の波長はおよそ400‐700 nmの範囲であるから,上記の波長は紫外線の領域に入る。

べンゼンの電子吸収を起こす遷移はほかにもたくさんあるが,すべてこの波長より短いと予想してよいので,ベンゼンは無色透明と結論される。

いうまでもなく,これは実験事実と一致している。ベンゼンのπ電子は,素朴な近似では上記のように円環の中を運動すると見なしてよいので,マイナスの電気の流れという意味で「環電流」とよばれ,この電流が作る磁場はベンゼンの磁気的性質の考察にしばしば使われている。

(4)確率分布の応用例(パターン2-7,2-8,2-9)

 図2-8は,ベンゼンの分子の中にある電子の波動方程式を計算して電子の存在確率を求めた実例で,すべての電子の密度分布と,そのうちのπ電子のみの密度分布とを表している。

実験的には結晶のX線回折から求められ,この図とよく一致している。実験で求めた電子分布は第9章に説明されている。(ムービー2-6)


(5)卜ンネル効果(パターン2-11)(ムービー2-8

 量子力学を使って初めて説明できるミクロの粒子の性質に「トンネル効果」がある。

古典力学によれば位置エネルギーが全エネルギーEを超える領域(図2-9b)では,(2.11)により運動エネルギーTがマイナスになり,速度が実数でなくなるので粒子は到達できない。

しかし量子力学では,このような領城にも粒子はゼロでない存在確率を持つ。

いわば「粒子の分布は波のように滲みだす」。

この現象は卜ンネル効果とよばれ,多数の実験結果をよく説明する。

この効果は,波動方程式を使えばほぼ自動的に説明できる。

量子化学の実験によく出てくるのは,ポテンシャルエネルギーに極小点が二つ以上あって途中に山がある場合である。

古典的な考え方では,物体は山に遮られて隣と行き来できないが,電子やプロトンなら卜ンネルのように障壁の中を波がしみ通るようにして行き来できる。