3.電子のスピンとパウリの原理(パターン2-12)(ムービー2-9,2-10,2-11)

 電子は質量,負の電荷,角運動量と磁気モーメントを持つ(付録A参照)。

これらは,それぞれが自然界に存在するすべての物質の個性を決める重要な性質である。

一言でいえば,質量は電子の動き方を決め,電荷は電子に働く力を決め,角運動量と磁気モーメントは,電子が物質の中で「極微の磁石」としてふるまうことを示す。

(1)電子スピン角運動量: 量子数と波動関数(ムービー2-9)

 力学では「こま」のように回転している物体に「角運動量」という物理量を考える(第11章参照)。

量子力学の一般則によると,ミクロの系の角運動量は次のように表される。

(2.65)


(2.66)


すなわち,全角運動量を2乗した演算子の固有値は量子数で表され,空間のある方向をz軸と決めると,その方向の角運動量成分は量子数で表される。量子数を決めると,個の異なった値をとることができる。

この式は,本講義でこれから何回も出てくる重要な式である。

 電子はスピンとよばれる固有の角運動量と磁気モーメン卜を持つ。素朴に考えると,電子は「こま」のように自転しているとみてよい。

このモデルは定量的には正しくないが,定性的にはわかりやすい。

この場合に量子数に相当する固有値は慣習としてSと書かれる。下記の実験によれば,そのz成分の2通りの値をとりうることがわかる。

量子数が+すなわち「上向き」の場合をα,−すなわち「下向き」の場合をβと名づける。式(2.66)によれば,

(2.67)


(2.68)


となっている。

(2)シュテルン・ゲルラッハの実験

 たとえば銀を電気炉に入れて蒸発させ,スリッ卜を通して原子ビームとして真空中に導き,不均一な磁場に通す。

磁場の強さは縦方向に一様でなく,上にゆくほど強くなる。

原子が磁気モーメントを持つと(すなわち磁石であると),その原子には磁場の力が働いて,道筋が縦方向に曲げられる。

磁気モーメントが上向きか下向きかによって道筋は上下の両側に分かれ,通路にスクリーンを置くと原子がその上に堆積する(図2-10)。

この実験は1922年にシュテルンとゲルラッハによって初めて行われたもので,銀の原子が磁気モーメン卜を持つことを証明した。

この原子は軌道運動による磁気モーメントを持たないので,測定された磁気モーメン卜はその原子中の1個の5s電子のスピン磁気モーメン卜に起因すると結論でき,「電子は小さい磁石である」ことを実証した。


(3)Na-D線スペクトルの分裂: スピン軌道相互作用(パターン2-13)(ムービー2-10)

 ナトリウムランプの光(Na-D線)をプリズムに入れると2本に分かれる(図2-11)。

第3章で説明されるように,Na-D線は原子の最も外側にある電子の励起状態3pから基底状態3sへの遷移によって起こる。

その線が2本に分裂するのは,「スピン‐軌道相互作用」とよばれる効果による。

要点は次のように定性的に説明できる。3p電子は原子核のまわりを軌道運動しているが,相対的に考えて,その電子のまわりをNa+イオンが回転しているとみなすと,そのプラス電荷の回転運動はコイルを流れる電流に相当し,中心の3p電子の所に電磁石のように磁場を作る。

したがって,その電子スピンの磁気モーメントが上向きαか下向きβかによって安定と不安定が生じ,エネルギー値が分裂するので,わずかに異なる振動数(あるいはその逆数に相当する波長)を持つ2本の輝線が放出される。

このように,電子のスピンは物質の性質を決める重要な要素になっている(第12章参照)。


(4)パウリの原理(ムービー2-11)

この原理は,原子あるいは分子を構成する電子がそれぞれどの波動関数で表される量子状態(いわゆる軌道)にどのように入り,結果として原子・分子がどのような電子状態をとるかを決める重要なものである。

「パウリの排他原理」とよばれている基本法則は,「ある一つの軌道に入ることができる電子は2個までである。

2個入る場合には,電子スピンはそれぞれαとβになる」と表現できる。

この原理は,いわば「電子の運動に関する交通規則」のようなものである。

一つの軌道に電子を2個入れると,1個はαになり,もう1個はβになる。

先ほど「ベンゼンのπ電子は2個ずつ軌道に入る」と述べたのも,この規則に従ったものである。

原子の周期表もパウリの原理で決められている。

原子・分子の電子状態への具体的な応用については,第3−4章でさらに詳しく説明する。

おわりに

本章では,量子化学の基本的な考え方として波動方程式の意味と使い方のあらましを説明した。

なお,量子力学にはここで説明したシュレーディンガーの波動力学のほかに,ハイゼンベルクの行列力学といわれる方法がある。

この方法では物理量を演算子の代わりに行列で表し,微分方程式の代わりに線形代数を使う(第6章)。

また本章では,電子スピンがパウリの原理とスピン軌道相互作用を媒介として自然界に存在するすべての物質の個性を決める重要な働きをしていることを述べた。

一方,プロトン(陽子)をはじめ多くの原子核も核スピンといわれる角運動量と磁気モーメン卜を持つ。

その性質も核磁気共鳴法など基礎的および応用的にきわめて重要なものである(第12章)。


演習問題

問2−1:ニュートンの第2運動法則(2.1)を時間で積分し,エネルギー保存則を導け。

(ヒント)(2.1)の両辺にを掛けて積分し,(2.3)を用いてから位置エネルギーを導く。

問2−2:演算子の交換関係を求めよ。

(ヒント)(2.14),(2.15)と(2.26)の関係を用いる。