第3章―原子の電子構造

 この章では,波動方程式を原子の系に適用する。(パターン3-1)(ムービー3-1

まず最も簡単な1電子・2粒子系である水素原子から始めて,波動方程式を解いて電子の波動関数とエネルギーを求める過程について説明する。

次に,それをへリウム原子(2電子・3粒子系)に発展させ,電子間相互作用の影響についてやや詳しく解説する。

最後に多電子原子に進み,元素の周期律はなぜ成立するのかについて,ごく簡単に述べる。

1.水素原子

(1)水素原子のスペクトル線(ムービー3-2

 水素分子を放電し,放出される光(電磁波)を分光すると,赤外領城から紫外領城にわたって多数の鋭いスペクトル線が観測される。

それらは,水素分子に由来する発光と,水素分子の分解によって生成した水素原子からの発光が混ざったものである。

19世紀の末から20世紀の初頭にかけて,原子スペクトル線の正確な波長の測定と精密な解析が行われた結果,これらの多数の線の間には驚くほど単純で規則的な関係が隠されていることが明らかになった。

最も有名なのは,水素原子からの発光のうち可視から紫外領城に観測されるバルマー線(1885)といわれる系列で,スペクトル線の波長λはを定数として

(3.1)


という実験式で厳密に表現できる。

他のすべての原子についても,波長の逆数はかならず上式のように二つの「項」の差の形で系統的に表わされる。

この不思議な関係式の起源を求めて模索が続けられ,ついに原子の世界における電子の運動法則「量子力学」の発見へとつながった。

(2)ボーア模型(ムービー3-3

水素原子は陽子と電子の2粒子系である。

まず古典力学に従って,この系のエネルギー(ハミルトン関数)を求めてみよう。

二つの粒子はそれぞれ3次元の運動の自由度を持つので,全体の自由度は3×2=6次元になる。

簡単な座標変換をすると,そのうちの3次元は原子の質量中心(重心)の空間的位置,すなわち原子が一かたまりとなってその空間の中を前後・左右・上下に並進運動する自由度として表される。

残りの3次元は,陽子に対する電子の相対的な位置を表す自由度になる。

ここでは後者(すなわち2粒子の相対的運動)だけに注目する。

電子の位置を表すのに直交座標系を使うと,は(2.9)と(2.10)を拡張して

(3.2)


と書ける。

位置エネルギーは,正負の電荷の間に働くクーロン引力に基づく。

質量μは陽子の質量と電子の質量から作られる換算質量

(3.3)


である。

しかしなので,μは事実上にほぼ等しい。

すなわち,およそ0.05%の誤差を覚悟すれば,「水素原子の陽子は静止していて電子はその周辺を飛び回っている」と考えてよい。

以下の説明では,簡単のためにと近似する。陽子と電子との間に働くクーロン力は両者の距離だけの関数であるから,陽子(正しくは2粒子系の質量中心)を原点とする極座標系で考えると便利である(図3-1)。

θとφはそれぞれ地球上の緯度と経度に相当する。

ただしθは赤道から南北両方向に測るのではなく,北極(z軸)を0として南極をπラジアンとする。直交座標との関係は

(3.4)


と表される。

 ラザフォード(1911)は,原子核の存在を原子によるα線の散乱によって実証した。

その直後(1913)に,ボーアは(パターン3-2)「水素原子の電子は,陽子のまわりを一定の半径で等速円運動している(言い換えると,一定の周期Tで回転している)」というモデルを提案した。(パタ−ン3-3)  

電子のこのような「公転運動」は,マクロの世界で地球上層に打ち上げられた静止衛星(通信衛星や気象衛星など)の運動と力学的にそっくりである。

人工衛星に働く力は,クーロン力の代わりに万有引力(地球の重力)であるが,どちらの力もに反比例し,クーロン力では2粒子の電荷の積,万有引力では質量の積に比例する。

 人工衛星は地球の重力で引かれているのに,なぜ地上に落ちてこないのだろう。

古典力学では,「回転運動している物体(人工衛星でも電子でも)には外向きに遠心力が働いて,ある軌道半径のときに引力とぴったり釣り合うためである」と説明する。

この計算を人工衛星に適用して地球の自転周期を代入すると,衛星は質量に関係なく赤道上で地上から35790 kmの高さに静止することを理解できる(付録B参照)。

 同様に,水素原子の電子は陽子に引かれているのに,なぜ吸い寄せられて電荷が中和してしまわないのだろう。

この場合には電子が荷電粒子なので,古典電磁気学の予想によると,「(この円運動のように)加速度を持つ運動をしている荷電粒子は電磁波を放出してしだいにエネルギーを失い,半径がどんどん減少して陽子に吸い込まれてしまう」はずであった。

 それにもかかわらず,ボーアは水素原子の電子の運動に等速円運動のモデルを大胆に適用した。彼は二つの仮定をした。

すなわち,

a) 古典電磁気学の常識をはずれて,原子の中の電子はいくつかの「定常状態]で一定の半径を保持し,

b) ある定常状態2(エネルギー)から,より安定な定常状態1()に移るときにだけ振動数

(3.5)

を持つ電磁波を放出する(ボーアの振動数条件(2.63))。

 さらに,付録Bに示したように「電子は(2.62)に示した波長λを持つド・ブロイの波であり,円軌道を1周して走ったとき波の位相がλの整数()倍だけ変わる(すなわち,元の波と戻ってきた波の山と谷がぴったりと重なり合う)場合に限って,ボーアが仮定した定常状態が実現する(量子化条件)」と考えると,水素原子のエネルギーおよびスペクトルを定量的に説明できる。

最も安定な(すなわち電子エネルギーが低い)定常状態では,軌道の半径はボーア半径とよばれ,ミクロの世界の「長さ」の単位として重要である((4)の(b)で詳しく説明する)。

 このように,ボーアのモデル(前期量子論)は現象の核心をつき,「原子の実体」を解明する重要な手がかりとなった。

しかし,このモデルで説明できたのは水素原子のスペクトル線の波長など(ムービー3-4)限られた一面だけであり,本格的な量子論が完成されて原子・分子の世界の現象がすっきりと解明されるまでには,さらに10年以上の歳月が必要であった。

(たとえば(5)で説明するように,原子中の電子は決して模型電気機関車のレールのような「一筋の円軌道」を走っているわけではない。

この意味でも,ボーアのモデルは「原子の真の姿]からはほど遠いものであった。(パターン3-4,3-5,3-6,3-7

(3)波動方程式(ムービー3-5)

 ここで量子力学の扱いに移ろう。前章の仮定1(2.26)に従って(3.2)を演算子に書き直すと

(3.6)

となる。

右辺第1項の括弧の中の偏微分演算子の和は,ラプラス演算子と呼ばれる重要な演算子で,

(3.7)


と表記される。

▽はナブラとよばれる偏微分ベクトル演算子で,成分は

(3.8)


である。

この方程式を波動関数に課せられた境界条件のもとで解いて,エネルギー固有値Eと固有関数(波動関数)ψを求めることが当面の問題である(第2章参照)。

ここで(3.4)の極座標系に変換すると,波動関数ψは

(3.9)


という三つの1変数関数の積の形で表される。

波動方程式もそれに応じて,次のような1変数の微分方程式に「変数分離」できる。式に現れるは定数である(すぐ後で,量子数として定義される)。

(3.10)

(3.11)


(3.12)


 角度の関数Θ(θ)とΦ(φ)の積を

(3.13)


と書く。

これは球面調和関数とよばれる重要な関数で,ここで考えている電子の回転運動だけでなく,分子の回転運動など,様々な現象の解析に広く用いられる(第11章参照)。

(3.10)と(3.11)から,が満足する方程式は

(3.14)


と書ける。

この式は「角度部分の方程式」とよばれている。

 一方,陽子と電子の距離を変数として含む「動径部分の方程式」(3.12)には,左辺第2項にクーロン力の位置エネルギー

(3.15)


が現れる。

Zは原子核の正電荷数を表し,水素原子核(陽子)ではもちろんZ=1である。

しかし,ここで説明する結果はあとで水素以外の原子の場合にも使われるので,一般化するためにZを表記に加えてある。

は国際単位系(MKSA単位系)を採用したこと(すなわち,長さにメートル,電荷にクーロン,力にニュートンという単位を採用したこと)によって現れる係数であり,は真空の誘電率とよばれる基礎物理定数である(付録A参照)。

 (3.12)の左辺の第3項は遠心力の位置エネルギーを表している。

動径方向(陽子と電子を結ぶ線分の方向)だけを切り離して考えた方程式(3.12)では,電子と一緒に陽子のまわりを回転している座標系をとっていることに相当するので,遠心力が自動的に式に現れる。

(4)波動方程式の解

 波動関数が第2章で説明した境界条件(全区間にわたり一価・連続で,確率を表す積分が発散しない)に従うことを要請すると,これらの方程式の解は,下記のように三つの「量子数」が特定の整数値をとるときに限って,次のような形で存在することが証明される。

(3.16)


詳細な計算をすると,三つの量子数がとりうるすべての値について一般的な表現を与える数式解が近似なしに求められる。

以上の計算は物理数学として興味深いものであるが,数学的内容が本書の程度を超えるし,説明も長くなるので省略する。

巻末の文献を参照されたい。

ここでは簡単のために,その中で量子化学で最もよく用いられる重要な波動関数だけに限って示す。

初学者にとっては,以下に記す関数と第9章で補足されるd関数だけを知っていれば十分である。

これらの関数が確かに波動方程式の解になっていることは,以下に示す関数を上記の方程式に代入して微分の計算をしてみると証明できる。

三つの量子数は次のようによばれている。

:主量子数, :方位量子数, :磁気量子数

(a)角度部分の解

 解は二つの量子数,で指定され,には次の整数値だけが許される。

(3.17)


あるを指定すると,そのときのには下記の個の値だけが許される。

(3.18)


これらの条件を満足する量子数を持つ関数のうち,の関数を,歴史的な慣習でそれぞれs,p,d,f関数という。

に対応する四つの関数を記す。

各関数が特定の定数係数を持つのは,(2.32)によって規格化されているためである。

(3.19)
(3.20)
(3.21)
(3.22)


虚数を引数に含む指数関数に関する定理(2.25)を用いると,

(3.23)


(3.24)


となるので,極座標と直交座標との関係(3.4)を考えると,三つのp関数(3.20)‐(3.22)は

(3.25)
(3.26)
(3.27)


と変形できる。以上を要約すると,s関数は角度θ,φに依存しないので球対称であり,関数はそれぞれと同じ方向性を持つ。

すなわち,この三つの関数は形は等しく空間的な向きだけが異なり,それぞれある一つの平面上で波動関数は恒等的にゼロになる。その平面を節平面という。

はyz平面(すなわちx=0),はzx平面(すなわちy=0),はxy平面(すなわちz=0)で関数の値がゼロになり,その節平面の両側で関数の符号は正負が逆転する(図3-2)。

これらの関数は,電子運動の空問的な方向性(たとえば化学結合の方向性)を考えるとき重要な意味をもつ(第6章参照)。

(b)原子単位

 陽子と電子の距離を変数とする解は,「動径部分の解」とよばれる。

このような計算では,表現を簡単にするために「原子単位」で表すことが多い。

原子単位は,いくつかの基礎物理定数を積または商の形で組み合わせた物理定数の集まりで,ミクロの世界の任意の物理量は,それと等しい次元を持つ定数との比の形で表現できる(付録A参照)。現在の問題で特に重要な物理量は,「長さ」と「エネルギー」である。

陽子の電荷,電子の質量,プランク定数を用いて,それぞれ長さの次元を持つ量(単位名:ボーア)とエネルギーの次元を持つ量(ハートリー)が定義できる。

(3.28)
(3.29)


(c)動径部分の解

 原子単位を用いて(3.12)を書き換えると,

(3.30)


となる。

第2章−2で述べた境界条件を満足する解は

(3.31)


の場合に限られる。

と2に対応する次の三つの関数は最も重要である(図3-3)。

(3.32)
(3.33)
(3.34)


 動径部分の波動関数は,次のような一般的性質を持っている。

1)のとき(電子が陽子の近くにいるとき),に比例する。

すなわち,陽子のすぐ近傍でゼロでない存在確率(電子密度)を持つのは,の電子(すなわちs電子)のみである(図3-3参照)。

2) のとき(電子が陽子から遠くにいるとき),の指数関数に比例して減衰する。

すなわち電子密度の減衰は,Zが小さいほど,が大きいほどゆるやかになる。

これらの性質の量子化学的な意昧は,多電子系について改めて説明する。

(d)全波動関数

 動径部分と角度部分の積(3.16)を作ると,全波動関数は次のように表される。は規格化(2.32)の定数である。

(3.35)
(3.36)
(3.37)
(3.38)
(3.39)


(5)電子の存在確率

第2章の仮定3(2.32)によると,はls電子が陽子のまわりに存在する確率を表している。

ls波動関数は球対称なので,半径がの間の球殻にあるls電子の存在確率を考えてみよう。

この球殻の体積は表面積と厚みの積としてなので,(3.35)により

(3.40)

となる(図3-4)。

すなわち,1s電子の陽子のまわりの確率分布は「鋭い球殻」あるいはボーア模型のような「軌道」ではなく,雲のように広がっている。

この事実は量子力学の出現によってはじめて明らかにされたもので,この電子分布は「電子雲」と呼ばれる。

また,電子の「波動関数」は「軌道のようなもの」という感覚的な意昧をこめて,しばしば「軌道(オービタル)」とよばれる*1。


*1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

本教材では,ある原子または分子について「波動関数」と「軌道」という言葉をこれからしばしば使う。この二つは理論的には同一の内容である。以下では,これらの言葉を次のように区別して使うことにする。「波動関数」とは波動方程式の解として数式的に表現される場合,「軌道」とはその波動関数を定性的・図式的に考える場合である。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この確率分布が最大となる半径を求めてみよう。

この関数の極値は,(3.40)をで微分してゼロとおけば求められる。

したがって (3.41)

となるので,

(3.42)


であることが分かる。
上に述べたように,原子核と電子の距離は原子単位で測っているので,水素原子(Z=1)では,ls電子の存在確率は(ボーア半径)の球殻で最大値になっている(図3-4)。

(6)電子のエネルギー(ムービー3-6

 電子が陽子から無限大の距離にあるときをエネルギーの原点として固有値を求めると,主量子数のみに依存する負の量として,

(3.43)

と与えられる。

クーロン引力は原子核の電荷に比例するのに,上記のエネルギー固有値はなぜ

に比例するのだろう。

それは,電子がZに逆比例して原子核の近くに引き寄せられ,位置エネルギーは陽子と電子の距離に反比例するため,そこで再びZに比例する係数が入るためである。

また主量子数が分母に入っているのは,電子の陽子からの平均距離がとともに大きくなり((3.32)−(3.34)参照)*2,陽子の引力がその分だけ弱くなることに対応している。

 水素原子の最も安定な状態(基底状態)すなわちls状態では,電子のエネルギーは

(3.44)


となる。(パターン3-5

*2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 動径部分の波動関数(3.32)−(3.34)の右辺に現れる指数関数の引数は,という形になっている。電子の陽子からの距離が大きくなったときの波動関数の減衰は,引数の絶対値が大きいほど大きいので,主量子数が大きいほど減衰は起こりにくくなる。したがって,電子分布はが大きいほど全体として外に広がっている。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(7)水素原子の電子励起状態(ムービー3-7

水素を含む化合物に短波長の光を当てるか,または(たとえば放電して)電子を当てて分解させると,電子励起状態(電子が主量子数の波動関数をとる状態)の水素原子を多量に生成させることができる。

励起原子は電磁波(可視などの光)を放出して,その状態より低いエネルギーを持つ(より安定な)電子状態に移る。

(1)に述べたバルマー線はその一例である(図3-5)。

 電子に渡されるエネルギーが1s状態のイオン化エネルギー(すなわち(3.44)の13.6 eV)を超えると,電子は陽子のクーロン引力による束縛を離れて真空中に脱出し,原子は陽子と電子に解離してしまう。

この現象をイオン化という。

これは,地球上でロケットが燃料噴射により大きな運動エネルギーを得て地球の重力から解放され,宇宙空間に脱出する過程とよく似ている(図3-6)。

(8)励起水素原子からの発光(パターン3-6

 主量子数の状態にあった原子がの状態に遷移する場合を考えると,ボーアの振動数条件(2.63)により

(3.45)


に相当する波長λを持っ光が放出される。

波長と主量子数との関係は,(3.43)により

(3.46)

となる。

はリュードベリ定数という重要な基礎物理定数である。

この式は実測のスペクトル波長を正確に説明し,水素原子の系には量子力学の法則が厳密に成立していることを実証している。

(3.47)


である。

さらに厳密な値を得るためには,電子の質量を電子と陽子の換算質量μ(3.3)で置き換えて

の代わりに を用いる