2.へリウム原子(ムービー3-8)
へリウム原子は原子核He2+と2電子の系である。
水素原子と違うのは,核と電子のクーロン引力のほかに二つの電子の間にクーロン反発力が働くことである。
この電子間反発相互作用は,多電子原子ではさらに複雑になる。He原子の系は,この問題について考えるための出発点として重要である。
(1)波動方程式
2電子の全エネルギーを表す演算子は,まず各電子がそれぞれHe原子核のまわりを独立に運動していると考えて得られる(水素原子の場合と同じ形の)演算子の和を作り,それに電子間のクーロン反発力の位置エネルギーを加えたものになる(図3-7)。
電子を仮にと「背番号」をつけて,極座標(
)を簡単のために
と表すと,波動方程式は次のように表される。
(3.48)
|
は水素原子と同様のハミルトン演算子で,(3.6)と(3.15)に原子単位を用いると
(3.49) |
と表される。
第1項は電子1または2の運動エネルギーを表し,第2項はHe2+核と電子とのクーロン引力に由来する位置エネルギーを表している。
(3.10)−(3.14)に示したように,(3.49)は1座標変数だけを含む方程式に分離できる。
He原子の問題がH原子のときと基本的に異なるのは,(3.48)の第3項
(3.50) |
が存在することである。
この項は電子1,2のクーロン反発力による位置エネルギーを表す。
この電子反発のために,(3.48)の波動方程式の一般解を数式的に求めることはできない。
しかし,摂動法あるいは変分法とよばれる優れた近似解法を使うことができるし,電子計算機を用いてほとんど正確な解を数値的に求めることもできる。
ここでは変分法を応用してみるが,その前にこの演算子が演算されるHe原子の電子波動関数についてやや詳しく説明する。(パターン3-8)
(2)2電子系の波動関数(パターン3-9)
最も安定な状態では,2個の電子はいずれも水素の1s状態にほぼ相当する状態になる(ただし,Z=2なので,(3.43)によりエネルギーは水素ls状態のおよそ4倍になると予想される)。
したがって,それぞれの波動関数は(3.35)のような形をしているはずである。それを
(3.51) |
と表す。
電子の波動関数を考えるときには,このほかに第2章で述べた電子スピンを考える必要がある。
そこで,電子の磁気モーメントが+のものをα,−のものをβと表すことを示した。電子スピンの波動関数はどのように表現すればよいのだろうか。
厳密にいえば,スピン波動関数は各電子が持つ「スピン座標」といわれる座標を変数として定義される。
ここでは詳細を参考文献に譲って,たとえば電子1が+の磁気モーメン卜を持つときα(1),電子2が−のモーメン卜を持つときβ(2)と表すことにする。
さて,いままでは電子に便宜的に背番号をつけて表したが,個々の電子はもちろん区別できない。
したがって,2電子系の波動関数をと書き,もし背番号をつけかえてとしたら,それらの波動関数は実質的に等しいはずである。
このことから一般的に
(3.52) |
である(ψはいつも2乗した形で使われるので,符号は正でも負でも同じである)。
実際は正負のどちらであるかというと,「電子につけた背番号1,2を反対にすると,電子の波動関数は符号を変えなければならない」という自然界の重要な基本法則が知られている。
これを「電子の交換に関する反対称性」という。
いま考えているHe原子の波動関数では,この法則は
(3.53) |
と表現できる。
以上を要約すると,He原子の(ls)2状態,すなわち2個の電子の両方がls状態にあるときの波動関数は,ls「軌道の波動関数」と「電子スピンの波動関数」をあわせて考えると
(3.54) |
と表される(スピン関数の前のは規格化の定数である)*3。
(3.53)は確かに満足されている。
この波動関数は図3-8のように図形で表すことができる。
これを電子配置図という。パウリの排他原理(第2章)によれば,「二つ以上の電子は同じ軌道(たとえば1s)に同じスピンの向き(たとえばα)で入ることが許されない」。
この原理は上記の「反対称性」に起因している。なぜならば,もしこのことが実現すると,波動関数は
(3.55) |
となって,存在確率がゼロになってしまうからである。
(3.54)のような波動関数の形および波動関数と電子配置図との一対一対応は,以下に述べるように多電子系の場合にもそのまま拡張できる。
*3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
線形代数を学んだ読者は,(3.54)が行列式の形で
(3.56) |
と書けることに気づくであろう。
行列式は,ある行または列をそっくり入れ換えると符号が逆転する性質があり,上記の「電子交換に対する反対称性」の要請を満足している。
したがって,多電子系の波動関数を1電子波動関数の積の形で表すときには,かならず行列式の形で表現できる。これを「スレイター行列式」という。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(3)変分法のあらまし
波動方程式の優れた近似解法として,変分法が広く使われている。
He原子にこの方法を応用する前に,変分法の考え方のあらましを説明しよう。
Heの(ls)2状態のように最も安定な電子状態(基底状態)を考えて,その状態を表す近似的な波動関数φを用いてエネルギーの期待値εを計算したとする*4。
(3.57) |
*4−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この積分では,積分要素を一般的な記号dτで表している。「考えている系のすべての電
子のすべての変数の座標について積分する]という意味である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(2.33)によれば,「上式の期待値εは真のエネルギー固有値Eよりかならず高い(不安定である)」という結果になるはずである。
なぜならば,近似的な波動関数φは,どんなに真の基底状態の波動関数ψに近かったとしても,100%正しくない限りその中に励起状態の波動関数の成分がかならず含まれているので,(第2章で説明したように)その確率と励起エネルギーの積の分だけ期待値のエネルギーεは真の固有値Eより高くなるからである。
変分法とは,この関係に着目して,近似的波動関数に含まれる基底状態の波動関数の割合を最大にしようとする方法である。
そのために近似関数(試行関数とよばれる)の中に動かすことのできるパラメーター(ここでは仮にλと表す)を入れておき,「εを最小にする」という条件でλを最適値になるように調整する(図3-9)。
パラメーターは試行関数にいくつ含ませてもよい。その数が多くなるほど計算は複雑になるが,調整の自由度が増すので近似が良くなる可能性も大きい。
(4)波動関数と有効核電荷
(3.54)の中に入る試行関数として,(3.35)の核電荷Z=2の代わりにζをパラメーターとして選び,(3.54)を書き換えてみる。
(3.58) |
ζを選ぶ理由は,まず(3.35)の形の関数を使うなら,自由に動かせる量はZしかないからである。
しかし,(3.58)はそれ以上の物理的内容を持っている。
すなわち(3.35)の関数は電荷がZ=2の1電子系(すなわちHe+)に対するものであるが,He原子では電子1(2)に対して電子2(1)のクーロン反発相互作用が存在するために,波動関数は全体として核から少し遠くに広がると予想される。
この変分法では,原子の有効な大きさが電子相互の反発によって少しふくらむ影響を,「ζの最適化」という手段で推定していることになる。
(3.58)を(3.57)に代入し,正しいハミルトン演算子(3.48)を代入して積分すると(かなりの数学的技巧を必要とする),エネルギー期待値は
(3.59) |
と求められる。
これをζで微分してゼロとおくと,ζの最適値は
(3.60) |
となる。
この式に現れた5/16という数値は,「ある電子が実効的に感じているHe原子核の電荷はZ=2ではなく,5/16だけ減少している」ことを示している。
これは,相手の電子分布(電子雲)が自分と核の間に部分的に広がって,原子核のクーロン引力を遮蔽(しゃへい)するためである(図3-10)。
そこで,5/16を「遮蔽定数」,27/16を「有効核電荷」とよぶ。
これらは個々の原子・分子における電子の働きを考察するときに極めて重要な量である。
(5)エネルギー(ムービー3-9)
エネルギー期待値の最適値(すなわち最小値)は
(3.61) |
となる。
この値とHe+のエネルギー((3.43)でとしたもの)との差を求めると,He原子のイオン化エネルギー(1s電子1個を真空中に取り出すのに要するエネルギー)を概算できる。(パターン3-10)
その値は0.848=23.l eVであり,実験値0.904=24.6 eVと比べると,かなり良い近似であることが分かる。
(6)電子励起状態
Heガスを放電管に入れて放電すると,58.4nmの波長(21.2eVのエネルギー)を持つ強い紫外光が放出される。
この発光はへリウム共鳴線He-Iとよばれ,種々の光化学反応の光源として広く使われている。
この光は,基底状態He(ls)2原子の1s電子の一つが電子衝突によって2pに励起され,その励起状態(ls)(2p)から基底状態(1s)2に失活するときに放出されるものである。
放電管の中には,ほかに(1s)(2s)の励起原子もたくさん生成している。
しかし,(ls)(2s)励起状態から基底状態(ls)2への発光による遷移は(第7章で説明する遷移の選択律のために)きわめて小さいので,この励起原子は光を放出して消滅することはほとんどなく,共存する他の原子または分子と衝突して失活しなければ長時間にわたって励起状態に留まり,種々の重要な化学反応を誘発することが知られている。
ここで,まず(1s)(2s)電子状態を表す波動関数について考えてみよう。
(ls)2のときにはパウリの排他原理が適用されたが,今度は2個の電子が別の軌道に入るので考えなくてよい。
すなわち,二つの電子スピンはαにもβにもなることが自由である。
交換に関する反対称性(3.53)を考えると,次の四つの組合せが可能である(軌道とスピンの関数のどちらかが電子の番号1,2の交換に関して対称で,他方が反対称になっているので,それらの積は反対称になることに注意してほしい)。
(3.62) |
(3.63) |
(3.64) |
(3.65) |
これらの電子状態のエネルギー期待値を(3.57)により計算してみると,上の三つの状態(3.62)‐(3.64)のエネルギーは(磁場がない場合には)等しい(三重に縮退している)ことが分かる。
そこで,この状態を「三重項状態」という。
一方,(3.65)で表される電子状態の値は,よりわずかに高くなる。
この状態を「一重項状態」という。
(ls)(2p)の波動関数は上記の2sを2pと書き換えたもので,同様に三重項と一重項の状態に分かれる。
先述の共鳴線(ls)(2p) → (ls)2を出す励起状態は,そのうちの一重項状態である。
また(ls)(2p)状態のエネルギーは,(ls)(2s)状態のエネルギーよりも少し高い(表3-1 )。
ここで注目したい重要な点は,ヘリウム原子のような2電子系では電子間の相互作用のためにエネルギーがのほかににも依存し,(ls)(2s)状態と(ls)(2p)状態は異なるエネルギーを持つことである。
これは,水素原子のような1電子系ではエネルギーは主量子数nだけで決まり,2s状態と2p状態(n=2)のエネルギーは等しいのと対照的である。
さらに,スピンの並び方の違いによっても,三重項状態と一重項状態という異なるエネルギーを持つ状態に分裂することである。
これらの事実は,すべての多電子系に共通する電子間相互作用の特徴である。