3.多電子原子

(1)原子軌道のエネルギーと電子配置(ムービー3-10

以上に述べた考え方は,Li(Z=3)以上の原子について考えるときにもほとんど共通に適用できる。

全電子系の波動関数は,He原子のときと同様に1電子の波動関数の積(スピン関数まで考慮したZ行Z列のスレイター行列式(3.56))の形に表すことができる。

これを1電子近似という。

原子は複雑な電子間相互作用を持つ多電子系なので,波動方程式をまともに解くことは一般に不可能である。

しかし,この1電子近似によって個々の電子の波動関数(軌道)を個別にできるだけ正確に解き,その積を手がかりとして多電子系の真の波動関数にどこまでも迫ることができる。

原子は球対称なので,角度部分の波動関数は二つの量子数で指定され,(3.19)-(3.22),(3.25)‐(3.27)などのように表される。

動径部分の波動方程式には,電子間反発相互作用の位置エネルギーを表す項が電子対の数だけ現れる(He原子(Z=2)の場合には,(3.50)ただ1項だけであった)。

動径部分の波動関数は,HおよびHe原子の場合と同様に,主量子数と方位量子数で指定される。

ある1電子に注目して,ほかの電子とのクーロン反発相互作用に基づく位置エネルギーを両電子の存在確率を考慮して平均した形で取り入れると,1電子近似の波動方程式が作れるので,前述の変分法を用いることにより最適の波動関数とエネルギー期待値を求めることができる。

 ただしこの1電子近似の方法はそれ自体「堂々めぐり」になっていて,正しい1電子波動関数を求めるときには,もう一つの配慮が必要である。

ある特定の電子について,正しい波動方程式から出発するには,その中に入っている位置エネルギーの項が正確でなければならない。

それらの項は,上記のように,その1個を除く他のすべての電子の正確な存在確率(したがって波動関数)が正確でなければ求められない。

このように,お互いの波動関数の正確さが他の波動関数の正確さに影響を与えている。

この難点を避ける知恵は,最良と想定した波動関数の一組から出発して,逐次近似で全電子系の波動関数について「つじつまを合わせながら」,正確さを高めていくことである。

このような方法で得られた多電子系内の相互作用の場をself-consistent field(略してSCF)という。(パターン3-11)

いままでに説明した「1電子波動関数(軌道)をSCF法で求め,その積を用いて多電子系の波動関数を求める方法」は,分子についても適用されている(次章以降で説明する)(ムービイー4-2)。

 Kr(Z=35)までの原子について求められた原子軌道のエネルギーと電子配置を,付録Eに要約する。軌道のエネルギーはls, 2s, 2p, 3s, 3p,… の順に高くなる。

収容できる電子の数は,パウリの原理によるとそれぞれの量子数あたりα,βの2個ずつなので,s軌道()では2個,p軌道()では個,d軌道()では個となる。

また,収容できる最大の電子数まで収容された場合(He,Ne,Ar,Krなど)の電子配置を「閉殻(closed shell)」とよび,空きがある場合を「開殻(open shell)」とよぶ。

開殻の原子では各電子が持つことのできる量子数に様々な可能性があるので,異なるエネルギーを持ついくつかの(基底および励起)電子配置をとりうる(付録E)。

 主量子数 の軌道を,歴史的慣習に従ってそれぞれ「K,L,M, … 殻」とよぶ。

Ar原子(閉殻)の18個の電子の確率分布(図3-12)を見ると,K,L,M殻の存在がはっきりと現れている。

この図は,アルゴンのガスを数十ないし数百μmの注射針のような金属ノズルから真空中に吹き出して,およそ40 keVの電子ビームを衝突散乱させる実験(気体電子回折)の結果得られたものである(波動方程式を数値的に解いて電子の波動関数を求め,確率分布を(2.31)により計算した結果と良く一致している)(ムービー4-3)。

(2)原子の電子構造と化学的性質(パターン3-12

 付録の表E‐1を見ると,元素の周期律は最外殻に入る電子の軌道によって作られていることが分かる。

典型的なのはアルカリ金属原子(Li, Na, K, … )で,閉殻の外にある1個のs電子が,これらの原子に共通する化学的性質を決める重要な役割を果たしている。

たとえば,LiやNa原子に見られる鮮やかな炎色反応(それぞれ深紅と橙黄色)は,Liでは2s,Naでは3s電子がそれぞれ2p,3p軌道に励起され,失活して2s,3s軌道に戻るときに放出される発光である。

またScに姶まる遷移金属原子では,(Crを例外として)4s軌道に2個の電子が入ったあと3d軌道に1個ずつ詰まってゆく。

遷移金属元素に特有の化学的性質はd電子に起因するものである(第9章参照)。

おわりに

 波動方程式の厳密な数式解が得られる場合はきわめて少数に限られる。

水素原子はその重要な場合の一つである。

この1電子系で得られたls, 2s, 2pなどの波動関数と,その波動関数が表す電子状態のエネルギーは,ほかの原子の電子状態を考える上での基本となる。

またヘリウム原子は,原子核と電子との引力のほか二つの電子の間にクーロン反発力が働いている系である。

その理論的な扱い方は,ほかの原子に含まれる多数の電子の間に働く複雑なクーロン相互作用を考える上での基本となる。この章では,この相互作用を変分法を用いる近似解法の考え方について簡単に説明した。

量子化学で使われる有力な近似法には,このほかに摂動法とよばれる方法がある。この方法については,第8章で改めて説明する。


演習問題

問3−1.水素のバルマー線の波長を計算し,実測値と比較せよ。

(ヒント)まず(3.47)によりリュードベリ定数を求めて,正しい値が出ることを確かめる。次に波長の式(3.46)を数値計算し,実測値(図3-5参照)と比べる。

問3−2.(3.35)を用いて,の期待値を求めよ。

(ヒント)期待値は(2.33)にならって,

(3.40)を用いてで計算する。

問3−3.He原子のエネルギー最適値(3.61)を確認せよ。また,数値計算して, 0.848になることを確かめよ。

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