2.水素分子の振動(ムービー4-11

(1)二原子系の運動に関する方程式(パターン4-19,4-20,4-21

 本章の1.(2)で,(a)二つの水素原子の運動は分子の回転(自由度2)と振動(自由度1)で表されること,(b)これらの運動は電子の運動と切り離して扱えることを説明した。

このような2粒子系の運動は,水素原子内の陽子と電子との相対運動とよく類似した波動方程式になる(ただし慣習によって,関数と量子数の記号は以下に示すように第3章の記号と少し異なる)。
すなわち,水素原子の質量を用いて換算質量を

(4.13)


と書くと,この運動を表す波動関数は,陽子間の距離と分子軸の空間配向角θ,φを極座標として次のように表される((3.16)参照)。

(4.14)


角度部分の波動関数は水素分子の回転運動を表す。

量子数として水素原子系ではを用いたが,ここでば慣習に従ってを用いる。

回転運動のエネルギーについては,回転スペクトルと関連させて第11章で説明する。

 水素原子での動径部分の波動方程式(3.12)と今回の水素分子の振動の波動方程式とで異なるのは,位置エネルギーの部分だけである。

(3.12)では

(4.15)


と表され,左辺の第3,4項はそれぞれ陽子‐電子間のクーロン引力と電子の回転エネルギーを表していた。

1.(2)で説明したボルン・オッペンハイマー近似によると,振動の波動方程式ではクーロン引力の位置エネルギー(第3項)の代わりに(4.1)の電子エネルギーが位置エネルギーの役割を果たす(物理的にいえば,電子エネルギーがなるべく安定になるように二つの陽子に力が働いて,その間の距離が調節される)。

慣習に従って,この位置エネルギーを1.(1)で述べたようにと書き,電子の回転エネルギー(第4項)の代わりに水素分子の回転エネルギーを代入する。振動の波動関数を

(4.16)


と書き,振動エネルギーを

(4.17)


と表すと,(4.15)と(4.16)の簡単な微分演算により,波動方程式は

(4.18)


となる。

水素分子をはじめ多くの安定な二原子分子の結合の伸縮に関する位置エネルギーは,平衡結合距離の付近(の谷底の付近)では,放物線でよく近似できることが実験的に知られている(図4-7)。

と表し,位置エネルギーの原点をの谷底)に移してと書くと,

(4.19)


となる。

(2)調和振動子の量子力学

 が右辺の第1項だけで近似できる場合

(4.20)


は,第2章1.(2)で説明した調和振動子の問題となる。

古典力学によれば,振動数ν(単位 ヘルツ Hz)は,力の定数kと物体の質量μによって決まり,

(4.21)


で与えられる。

を距離に対してプロットすると,図4-8の放物線になる。

波動方程式は(4.18)の変数をに変えて(4.20)を用いることにより

(4.22)


と表される(この式は,古典力学の運動エネルギー(2.5)の運動量Pxを第2章の仮定1(2.26)によって微分演算子に書き換えても得られる)。

波動関数に課せられた境界条件は,(確率の積分(2.32)を発散させないために)となることである。

そのためには,エネルギー固有値Evibが次の値をとらなければならないことが厳密に証明できる。

(4.23)


はプランク定数,νは(4.21)で与えられる振動数である。

このように,分子の振動のようなミクロの粒子の振動エネルギーは,振動数νに比例する等間隔の不連続な値をとることが特徴的である(図4-9)。

整数の振動量子数は,慣習によりでなくυと表記される。

振動基底状態では,振動子のエネルギーはとなる。

すなわち,最も安定な振動状態でも一定の振動エネルギーを持ち,ポテンシャル曲線の谷底のまわりに広がった確率分布を持つ。

これをゼロ点エネルギーとよぶ。古典力学では平衡位置に完全に静止した状態(振動エネルギーがゼロの状態)が実在するのと対照的である。


 波動関数についても正解が与えられる。振動基底状態では,

(4.24)


となる。

(2.36)に従って確率分布を考えると,ガウスの誤差曲線とよばれる釣鐘型になり面積はちょうど1になる(規格化されている)ことが分かる。

では,をy軸で折り返したときυが偶数のときには対称,奇数のときには反対称となり,ゼロ点(がx軸を切る点)の数はυに等しく,すなわちυとともに一つずつ増える(図4-9参照)。

第2章1.(2)で古典的転回点について説明した。

この点は図4-8で運動エネルギーTがゼロになるの位置である。

そこではになるので,(4.21),(4.23),(4.24)により

(4.25)


となる。

図4-9を見ると,振動子の振幅が古典的転回点を超えても波動関数はゼロにならない。

すなわち,第2章2.(5)で説明したトンネル効果の1例である。

(3)水素分子の振動(パターン4-22,4-23,4-24)

 水素分子の電子基底状態で分光学的に実測された振動エネルギーを図4-10に示す。

調和振動子ではエネルギーが振動量子数υによらず等間隔になると予想されるが,この分子ではυが増すにつれて準位の間隔が少しずつ狭くなっている。

これを分子振動の非調和性という。

  図4-1に示した実測のポテンシャル曲線は,この振動エネルギーと回転エネルギー(第11章)の実測値を基にして求められたものである。

振動基底状態(υ=0)にあるH2分子を二つのH原子に解離するためのエネルギーは,1.(1)で述べた平衡結合解離エネルギーとゼロ点振動エネルギーとの差となり,と実測されている。


おわりに

 ここまで水素分子を中心として,

(a)二原子分子のポテンシャル曲線*3はボルン・オッペンハイマー近似に基づいて電子エネルギーで決まること,

(b)安定な化学結合が作られるのは,分子軌道法の考え方によれば結合性軌道を電子が占有することに起因すること,そして

(c)結合距離・結合の強さ(力の定数)・振動数・結合解離エネルギーは,そのポテンシャル曲線の性質で決まること,

を説明した。

ほかの二原子分子あるいは多原子分子についても,問題は少し複雑になるだけで,上記の考え方はそのまま適用される。それについては次章以下に説明する。

*3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

力学では「位置エネルギー」と「ポテンシャルエネルギー」という言葉は一般には同じ内容である。英語ではどちらもpotential energyである。しかし量子化学で使われるときには,これらの言葉は次のように二通りの異なる意味を持つので混乱しやすい。本教材では,次のように使い分けている。分子中の各電子が分子内のある位置に存在するとき,その位置でほかの電子および原子核のクーロンの力の場のもとである電子が持つ位置エネルギーを「その電子の位置エネルギー」と表記する。分子が持つすべての電子の運動エネルギーと位置エネルギーの総和(全エネルギーH)は,ボルン・オッペンハイマー近似によれば,原子核の振動運動の原因となる「化学結合力の場の位置エネルギー(その分子が持つすべての原子核の座標の関数)」となる。これを本教材では「その分子のポテンシャルエネルギー」と表記し,それを原子核の座標(たとえば結合距離や結合角などの分子構造定数)の関数として図示したものを,慣習に従って「ポテンシャル曲線」あるいは「ポテンシャル曲面」とよぶことにする。

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演習問題

問4-1.(4.24)を用いて,(4.23)が(4.22)を満足することを確かめよ。

問4-2.He原子とHeイオンから構成されるHe分子の正イオンは安定に存在できるか。

(ヒント)この系の電子基底状態の電子配置を考えて,He‐He結合の結合次数を求めてみる。

問4-3.重水素分子D2である。H2分子のと比べて少し大きいのはなぜか。

(ヒント)(4.13)と(4.21)を参照すると,ゼロ点エネルギーは同位体の質量に依存することが分かる。