第5章 二原子分子の結合と電子構造(パターン5-1)(ムービー5-1)

 われわれは二原子を成分とする化学種*1に囲まれて生きている。

大気の主成分はいうまでもなくN2とO2であり、CO、CNなど強い生理活性を持つものや、NO、ClOなど環境化学で注目されているものも多い。

これらの二原子系は、構成原子の原子番号(原子核の電荷)を一つ増減させただけで(たとえばN2とCOのように)、まったく異なる化学的性質を示す。

このような特徴は電子の働きによるものであるが、量子化学でどのように説明できるのだろうか。

この章では、等核二原子分子(たとえばN2とO2)の電子構造を中心として、分子軌道法に基づいて要点を説明する。

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ここで「化学種」という言葉を使ったのは、通常の意味での「分子」のほかに正または負に帯電した「分子イオン」あるいは原子価が飽和していないラジカルなどを総称するためである。以下では、特別な場合を除いて単に「分子」と書くことにする。

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1.等核二原子分子の分子構造

(1)電子配置と結合の性質(ムービー5-2)(パターン5-25-3)

 水素分子(2電子系)からフッ素分子(18電子系)までの二原子分子について、実験的に求められた化学結合の性質を表5-1に示す。

分子の化学結合の強さの目安は解離エネルギー と結合のバネの強さを表す定数(4.20)で、それらの値が大きいほど結合は強い。

また類似した電子数を持つ分子では、平衡結合距離が短いほど両原子は近くに引き寄せられていて、結合が強いと考えてよい。

この表を見ると、N2分子は際だって強いN‐N結合を持ち、O2分子(ムービー5-3)とC2の結合はそれに次ぎ、反対にBe-Be分子は(He-He分子と同様に)安定な結合を作らないことが分かる。

前章で短く説明したように、これらの性質は各電子が結合性および反結合性の分子軌道にどのように収容されるかによって決められる。


(2)分子軌道の電子エネルギー(ムービー5-4)(パターン5-4

 前章の図4-4で、「二つの水素原子が接近すると原子軌道は重なりあって分子軌道を作り、結合性分子軌道の電子エネルギーは核距離rが減少するにつれて低くなる」こと、「その軌道に2個の電子が収容されることにより安定なH-H結合が作られる」ことを説明した。

表5-1にあげた二原子分子についても、電子数が多くなるだけで基本的な事情は同様である。その内容を少し詳しく考察しよう。

 原子aとbの、ある同等な原子軌道AOχaとχbを考える(第4章で述べたように、χはls、 2s、2pなどの電子波動関数を表す。

添え字のa,bは原子核a,bを原点とする波動関数である)。

ここでは等核二原子分子を考えているので、前章の(4.6), (4.8)のようにAOの線形結合により分子軌道(LCAOMO)を作ると、分子の対称性から考えて各AOの係数の絶対値は等しく、符号は正負のどちらかになるはずである。

各電子は、それぞれが配置されるLCAOMOの(核間距離に依存する)エネルギーを持ち、分子全体の電子エネルギーは分子に含まれるそれぞれの電子が持つエネルギーの総和である。

したがって、まず1個の電子が占める分子軌道のエネルギーを考えてみる((4.5)に示した電子スピンの寄与は、ここでの考察に直接には関係しないので省略する)。

 分子軌道のLCAOMO波動関数を(4.6), (4.8)にならって

(5.1)


と表す(χの内容は、1.(3)でさらに明確にする)。

エネルギー期待値εは、(2.33)により

(5.2)


と表される。

は、いま考えている電子の位置を表す座標をまとめて示したものである。は、問題としている二原子系の電子エネルギーを表すハミルトニアンであるが、この章で取り上げる範囲では内容に立ち入らなくてもよい。

この積分を略して

(5.3)


と書いてみると、aとbは同等であることを利用して、期待値εは二つの項の和で書けることが分かる。

(5.4)
(5.5)
(5.6)

 これらの二つの項は核間距離rに対してどのように依存するだろうか。

まずは原子aまたは原子bだけの波動関数で決まるので、核間距離が結合距離より大きい範囲ではに強くは依存しない。

つまり、は二つの原子が無限大の距離で独立に存在するときの原子エネルギーの和とあまり変らないとみてよい。

一方は原子aと原子bの両方の座標の関数になっているので、に敏感に依存する。

この値が負であれば、2原子が近づくにつれてエネルギーが低くなるので、結合による安定化が実現する(すなわち結合性の軌道となる)。

反対に正であれば、が減少するにつれてエネルギーが増大するので、反結合性の軌道となる。図4-4は以上の結論を模式的に図示したものである。

 ここでの考察で得られた結論は、「結合性軌道と反結合性軌道の1電子エネルギーは、両原子が近づくにつれて、という値だけ上下に分裂する」ことである。

(3)分子軌道の作り方(ムービー5-4

 本章で考えているLi2からF2までの分子系では、電子基底状態で電子が収容される原子軌道はである。

これらの原子軌道AOの同じもの1対をそれぞれ線形結合して、分子軌道LCAOMOを作ってみる。

第3章で説明したように2p軌道は方向性を持つので、z軸を分子の結合軸の方向にとり、x,y軸をそれと垂直な軸とする(図5-1参照)。

(a)1s軌道

 窒素分子を例にとって、N‐N結合の中点(分子の質量中心)で各N原子の1s電子が持つ確率分布を推定してみよう。

N‐N核間距離は表5-1によりである。

動径波動関数は(3.32)で与えられているので、有効核電荷(第3章2.(4)参照)を代入して、中点とN原子核の原点とでの電子の確率分布の比を概算すると

(5.7)

となる。

また、この比が例えば0.1になる距離は、である。

すなわち、ls電子はそれぞれの窒素原子核に強く引きつけられて核のすぐ近く(内殻)に局在し、隣の窒素原子とは無関係であることが分かる(図5-1 (a))。

言い換えると、ls軌道は孤立原子のK殻の軌道をほぼそのまま保ち、それぞれの軌道に電子を2個ずつスピンをα,βの対として収容する。

この事情は、Li2からF2まで、あるいは原子番号がそれより大きい等核二原子分子についても、すべての場合に共通している。

 いずれにしても4個のls電子が存在するので、分子軌道を(4.6), (4.8)にならって,と書くと、(5.6)のは小さく、両軌道のエネルギーは核間距離に無関係でほとんど等しい。

これらの軌道は非結合性分子軌道nonbonding MOとよばれる。

これらの軌道に電子スピンα,βの電子を計4個収容させると、電子配置はと表される。

(b)2s軌道の線形結合(パターン5-5

 2s軌道の場合には、電子の広がりがls軌道に比べてはるかに大きくなるので、両原子の2s波動関数の重なりは結合を考える上で十分に意味を持つ((3.33)を用いて上式と同じ概算をしてみると、(5.7)に相当する数字は7.7×10-2となる)。

(5.1)のように重なりの位相±を考えると、図5-1(b)のように位相が+のとき結合性軌道となる(結合の中点の付近で電子密度が大きい)。

(5.8)


一方、−のときには反結合性軌道 (中点を通り結合軸に垂直な平面で電子密度がゼロ)になる。

(5.9)


 これらの軌道をσと表記するのは、波動関数が結合軸のまわりで軸対称になっていることを表す(第3章で節平面を持たない原子軌道をs軌道とよぶことを述べた。

σはそれに対応するギリシア文字である)。軌道を軌道をと表記することも多い。

2はσ軌道の中でエネルギーが軌道に次いで2番目に低いことを表し、gとuは電子の座標 の符号を反転させてにしたとき「波動関数の符号が変わらない(対称、ドイツ語のgerade)」、あるいは「変わる(反対称ungerade)」という性質を持つことを表している。

(c)軌道の線形結合

 図5-1 (c)のように、軌道も結合軸に対して軸対称になっている。

上記と同様に線形結合を考えると、

(5.10)
(5.11)


となる。

これらの軌道の波動関数は結合軸のまわりでやはり軸対称になっているので、σで表す。

軌道と軌道は、σ軌道の中でエネルギーが軌道と軌道に次いで3番目に低いので、それぞれ軌道と表される。

前記の軌道と異なるのは、二つの原子軌道の差が結合性軌道となり、和が反結合性軌道になることである。

図5-1(c)に示されるように、これは原子軌道の位相の合わせ方が2s原子軌道(z座標を-zにする反転に対して対称と)と原子軌道(z座標を-zにする反転に対して反対称)とで逆になるためである。

(d)軌道の線形結合

 図5-1(d)のように、二つの原子を近づけるとの軌道を横向きに重ね合わせることができる。式で書くと

(5.12)

となる。

原子を近づけると重なりは大きくなり、この軌道が結合性であることが分かる。

これをπ軌道とよぶのは、平面が節平面となる(この平面上で波動関数が恒等的にゼロになる)からである。

すなわち原子の軌道(たとえばの原子軌道は平面が節平面となる)と対応させて、ギリシア文字πを用いている。

この軌道は座標の反転に対して反対称uの対称性を持ち、π軌道としては最低のエネルギーを持つので、軌道とよばれる。一方、反結合性の軌道は

(5.13)


となり、軌道とよばれる。

π軌道は節平面に対して反対称なので、座標反転をさせて符号を調べてみると分かるように、π軌道がuに、π*軌道がgに対応し、σ軌道の場合と逆になる。

 軌道の線形結合による分子軌道も、全く同様に作ることができる。

原子の三つの2p軌道が空間の向きだけ異なるのと同様に、これらのの分子軌道は、分子の結合軸のまわりで向きが90°異なるだけで、たがいに全く等しい性質を持つ。

これらのπ軌道を占めている電子はπ電子とよばれ、分子の化学的性質に重要な役割を果たしている(第6章参照)。