3.光電子スペクトルからみた分子軌道の性質(ムービー5-8)(パターン5-9)

 いままで述べてきた二原子分子の電子構造と結合の性質に関する実例として、ここで実験結果との比較について少し説明しよう。

実験的研究については第7章以下で詳細に説明するが、本章では比較的分かりやすい例として光電子スペクトルを取り上げてみる。

光電子スペクトルは、分子軌道の性質を知るための最も有力な方法の一つである。

(1)窒素分子の光電子スペクトルの測定(ムービー5-8

 実験装置は図5-4のようなものである。

短波長で単色の紫外光(すなわち一定の振動数νを持つ光)をレーザーまたはへリウム放電ランプなどで生成させる。

高真空に排気された容器に細孔から気体を吹き出し、光を気体分子に当てて(5.16)の反応でイオン化させる。

そのときに放出される光電子を引き出し、運動エネルギーを電子分光器という装置で正確に測定する。

この装置は、電子を一定の電磁場に通して進路の曲がり方を測るか、あるいは長い一定距離を走らせて飛行時間を測ることによって電子の速度υ(すなわち運動エネルギーを正確に求め、そのを持つ光電子の強度をスペクトルの形で表すものである。


 窒素分子を試料として、He放電ランプ(波長58.4 nm、光子エネルギー21.21 eV)の強い紫外光を光源として測定されたスペクトルを図5-5に示す。(パターン5-11

この図には、N2分子の分子軌道の性質に関する情報が豊富に含まれている。

(2)スペクトルの解釈−1: イオン化エネルギーの決定(ムービー5-9)

 当てた光のエネルギーはである(第2章参照)。

光のエネルギーはまとまったフォトンとして1個の分子に吸収され、その一部は光電子が分子から脱出するために使われる。

(分子のイオン化エネルギーは、いわば電子が分子から出て行くときの「出国税」である。)残りのエネルギーは光電子が運動エネルギーとして持ち去る。

エネルギー保存の法則により反応の前後でエネルギー収支は釣り合うので、次の等式(アインシュタインの公式 1905)が成立する。

(5.18)

実測された光電子のから、この式を用いてイオン化エネルギーが求められる。

(3)スペクトルの解釈−2: イオンの振電状態の帰属(パターン5-12

 図5-5の光電子スペクトルには何本もの鋭いピークが現れている。

2.(3)で述べたように、N2分子の振動基底状態という単一の量子状態からイオン化が起こっているので、イオン化エネルギーの異なる三つのピーク群は、それぞれ生成した分子イオンN2+の量子状態X, A、 Bに対応している。

それらの状態のポテンシャル曲線を図5-6に示す。


 最低のイオン化エネルギーで生成する状態は、N2+分子イオンの最も安定な状態、すなわち電子基底状態の振動基底状態である。

慣習により、電子基底状態はX、励起状態は(光学的禁制状態は別にして)低い方から順にA,B,…という記号で表される。

ある電子状態の振動状態を振電状態 vibronic stateとよぶ。

いま問題にしている状態は、N2+の振電基底状態である。

この状態はEi=15.6 eVに鋭いピークとして現れている。

そのすぐ脇に現れる小さいピークとのエネルギー差は波数で表すと2191 cm-1となるので、このピークはXの振動励起状態に帰属される。N2中性分子の振動数は2345 cm-1なので、それと比べると、この振動数はわずかに小さい。

すなわち、(4.21)によれば結合の力の定数が小さい。

したがって、N2がイオン化して(1個の光電子が失われて)N2+(X)となったとき、N‐N結合は少しだけ弱くなる。

言い換えると、この光電子はイオン化する前には弱い結合性軌道に入っていて、分子の安定化に役だっていたことが分かる。

 16.7eVから18.3eVにかけて、ほぼ等間隔に規則正しく並んだ7本ほどのピークが観測されている。

これらのピークは電子励起状態A(図5-6参照)に帰属され、各ピークはその振動状態()に帰属される。

それらの間隔から振動数を求めると約1850 cm-1となるので、電子基底状態Xとは違って電子励起状態Aでは中性のN2分子と比べてN‐N結合が著しく弱くなっていることが分かる。

すなわち、A状態の分子イオンが生成するときには、強い結合性の軌道に入っていた電子が光電子として抜けたことが分かる。

 18.8 eVの鋭いピークとその脇の小さいピークは図5-6の電子励起状態Bに帰属され、その間隔から求めた振動数2397 cm-1と中性のN2分子との比較から、B状態の分子イオンが生成するときには光電子はほとんど非結合性(極めて弱い反結合性)の軌道から抜けたことが分かる。

(4)スペクトルの解釈−3: 光電子が入っていた分子軌道

 さらに詳しい分光学的研究によると、それぞれの電子状態の電子配置は次のようになっている。

(5.19)


 上記の結論によれば、軌道は強い結合性で、軌道はほとんど非結合性である。

言い換えると、N2分子の強いN≡N化学結合は、軌道に入っている2個のσ電子(1本のσ結合)と軌道に入っている4個のπ電子(2本のπ結合)によって作られていることが分かる。

(5)スペクトルの解釈−4: 光電子スペクトルに現れる振動ピーク

 図5-5のAのスペクトルにだけ多数の振動ピークが現れているのはなぜだろうか。これは図5-7のポテンシャル曲線の形を用いて説明できる。

 分子がイオン化してN2がN2+になると、ポテンシャル曲線はイオン化エネルギーの分だけ高くなる。

もし電子が完全に非結合性の軌道から抜ければ、イオン化エネルギーは核間距離にまったく依存しないので、ポテンシャル曲線は上に平行移動する。

の励起状態Aを生成する場合のように、もし強い結合性の軌道から電子が抜ければ、この軌道の電子エネルギーは核間距離に大きく依存するので、ポテンシャル曲線はN2(X)の場合と比べて外側にずれ、変形する。

 第3章で説明したボルン・オッペンハイマー近似によれば、電子の動きに比べて原子核の動きは遅いので、電子がイオン化して分子を離れるのに必要な短い時間に核は静止しているとみなしてよい。

すなわち、図5-7で中性分子N2から分子イオンのポテンシャル曲線に移るときには、横軸の核間距離は一定に保たれる(すなわち、図5-6のグラフで真上に上がった場所に移る)。

この考え方はフランク・コンドンの原理とよばれ、分子の電子励起過程を考察するとき重要な指導原理となっている。

イオン化によってN2+のXあるいはB状態が生成する場合には、ポテンシャル曲線はほぼ平行移動しているので、N2のX状態の振動状態からはN2+が生成する確率が圧倒的に高いと予想される。

実測されたピーク強度は、確かにその通りになっている。

ところがA状態を生成する場合には、図5-6のようにポテンシャル曲線が大きく右にずれているので、N2から真上に上がったの状態ではの状態が生成される確率が大きい。

振動量子数までのピークが実測されているのはこの事情に対応している。

このように、イオン化に関与した分子軌道の性質についての情報は光電子スペクトルの形からも読みとることができる。