2.混成軌道

 炭素と水素の結合した化合物である炭化水素の典型的な分子としてメタン,エタン,エチレン,アセチレンの実験的に決められた構造を図6-2に示した。(パターン6-56-6

ムービー6−4

(1)sp混成軌道(パターン6-7ムービー6-5

 メタンの四つのC‐H結合はすべて互いに等価であり,四つの水素原子はすべての性質において全く差異がない*1。

H‐C‐Hの結合角は厳密に109°28´であることが実験的に分かっている。四つの水素原子を結ぶと正四面体となる。

*1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 歴史的にはメタン分子の水素原子を他の原子に置き換えた分子式CHXおよびCHXYを持つ置換体にはただ1種類しかないことから,4個すべての水素原子が等価であること,したがって正4面体構造を持つことが,ファント・ホッフおよびル・ベルによって提案された(1874)。現在は電子線回折および分光法などで厳密に証明されている。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 炭素原子の原子価電子の電子配置はであり,安定な2s軌道に2個の電子がスピンを反平行にして入り,残りの2個の電子はフントの規則によりスピンを平行にして別々の2p軌道に入っている。

炭素と水素原子の結合を構成する素材としての原子軌道関数は,水素の1sと炭素の2sと2p関数であるが,2sは既に2個の電子で満たされている。

 「電子が満たされていない炭素原子の2p軌道に,4個の水素原子を用いて電子を供給して結合を作ったのがメタンである」と考えてみる。

その際,「二つの原子軌道の重なりが大きい方向に結合ができる」と素朴に考えてみよう。

2p関数は二つの歪んだ球がくっついた形状の空間分布を持ち,軌道は互いに垂直である。上記の電子配置のの二つの軌道がであるとすると,これらの軌道に配置した1個の電子と水素原子の持つ1個の電子を軌道を重ね合わせることで共有することができる。

すなわち互いに垂直な2個のC‐H結合ができる。

最初,軌道には電子は配置していないので,電子を2個詰めることが可能である。これを2個の水素原子から供給する。

この際,その2個の水素原子は空の2p軌道に同一方向から二つ,あるいは反対方向から一つずつ結合する。

このように考えてくると,メタン分子の形は図6-3のように推察することになる。


 これは現実のメタンの構造を異なっている。

したがって前記の推察は誤りであり,結合の成立に関して何か別の機構を考えることが必要になる。

 炭素原子における2s軌道と2p軌道は、エネルギー差のない,空間的な分布だけが異なる軌道であると考えることにする。

そして,第4章1-(4)で述べたLCAOの考え方を原子自身の電子軌道関数にも適用してみる。これらの原子軌道の線形結合をとると

(6.1)


となる。

四つの素材となる軌道(これを基底関数という)からは四つの互いに独立な組み合わせの関数ができる(たがいに独立な軌道とは,数学的にはたがいに直交する波動関数と同義である*1)。

例えば次のような結合が可能である。

(6.2)
(6.3)
(6.4)
(6.5)


 これら四つの関数は空間的な方向を除いて全く等価であり,たがいに規格直交する関数である*1。

の場合,を+の位相で結合した関数の正の位相は,軸のそれぞれが正の領域に挟まれた空間(第1象限)にあり,原点に対して反対側に負の広がりがある。

これにの正の値を加えれば,先のでできた正の領域の値はますます大きくなり,負の領域の値は打ち消し合いにより,小さな値になる。

結果として正の位相を持つ大きな空間分布と,負の位相を持つ小さな空間分布が座標原点で接しているような関数が得られる。

 (6.1)式の組み合わせの仕方は(6.2)〜(6.5)の一通りではない。

例えば,z軸のまわりに右ネジ方向に-45°回転し,さらにy軸まわりにに-45°回転すると,

(6.6)
(6.7)
(6.8)
(6.9)

を得る。

これらの軌道関数も規格直交化されている*2。

*2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 規格性は(6.2)〜(6.5)式におけるそれぞれの係数の和から,

直交性はから分かる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 このようにして,エネルギーの近接した原子軌道の組み替えで生じた新たな原子の軌道を混成軌道という。

注意しなければならないのは,孤立した原子それ自身に混成軌道が安定に存在するのではなく,複数の原子と結合して分子を作るときに,その結合が安定になるように組み替えられて作られる軌道と考えるべきことである。

メタンを作り上げる混成軌道は2s軌道1個と2p軌道3個とでできる混成軌道であり,これをsp3混成(軌道)とよぶ。

すなわち,炭素原子の電子配置は図6-4のようにとなり,原子軌道のエネルギーとしては2pと2sの差に相当する分だけ不安定になりながらもsp3混成軌道を作り,これが他の原子の軌道とエネルギーの低い結合性軌道を作ることにより,結果として安定な分子を形成すると考えることができる。

実際,メタン型の混成軌道で作られる分子軌道は,後に述べる多重結合を作る分子軌道よりはるかに安定である。

 混成軌道関数の一つ一つは結合軸のまわりに軸対称性がある。

このような空間分布を持つ軌道に入っている電子で結ばれた結合をσ結合という。

また炭素原子の満たされない4個の電子を他の原子から補充して,結果として四つの原子と結合を作る。

その結合する能力をすべて使っており,これを飽和結合という。

ある原子が他の原子と最大限何個と結合できるかを原子価といい,「結合の手が…本ある」と表現する場合がある。

炭素の原子価が4であり,4本の結合の手を持つことの量子化学的根拠は,混成軌道により四つの原子と共有結合を形成できることである。

 メタンの四つの水素原子を炭素原子に置き換え,それらの炭素がさらに別の炭素原子に結合していくと,無数の正四面体の面がすべて互いに重なった形の立体的な結合の系ができる。

すべての∠CCCの角度は109°28´で,すべてのC‐Cの長さは1.150Åである。これがダイヤモンド結晶である(図6-5)。


(2)sp混成軌道

 二重結合をもつ最も基本的な炭化水素がエチレンである。(ムービー6-6

その分子構造は図6‐2に示したように,四つの水素原子はすべて等価で平面形であることが実験的に分かっている。

炭素からの3本の結合手は同一平面上に伸びている。同じ炭素原子でありながら,メタン分子とは異なるこのような結合の仕方の違いはどうして生じるのであろうか。それについて考えてみよう。

 炭素原子が他の3個の原子と結合を作る場合には,上記のsp3混成軌道の場合と同様な考え方により,の4個の軌道のうち,1個の2s軌道と2個の2p軌道を用いて混成軌道を作る。三つの基底関数からは三つの独立な(すなわち,直交した)関数ができる(図6-6)。

(6.10)
(6.11)
(6.12)


 幾何学的な考察により,これら三つの軌道関数の最大値がある方向は120°の角度をなし,平面状に分布することが分かる。

この際,もともと2sにあった2個の電子の一つはに移動し,sp2軌道面に垂直な方向に向き,不対電子となる。

エチレン分子の場合には,この不対電子を持つ二つの軌道があらためて組み合わされることにより,結合性と反結合性の分子軌道,すなわちπ軌道およびπ軌道が形成される。

エチレン分子の場合,の軌道は水素原子の1s軌道と組み合わさることによりC−H結合ができる。

さらに二つの炭素原子の同士で作られるσ結合性軌道と,π軌道に入る電子で二つの炭素原子が結合する。この結合を二重結合とよぶ。

通常C=Cのように表記するが,この横線2本は2本の等価な結合で結ばれているという意味ではないことに注意しよう(図6-7)。


 炭素原子4個が結合したブタジエン(C4H6)は,二つのエチレン分子がそれぞれ一つの水素との結合の手を解き,その手を用いて互いに結び直したと考えることができる。

軌道は空間的に広がった分布を持つ。

ブタジエンの場合,四つの軌道の重なりは主に外側二つの炭素原子の間にあるが,内側二つの炭素の間にも多少の重なりが生じる(図6-8(a))。

四つの手が互いに組み合わさると考えてもよい。

あるいは,瞬間的に内側の炭素同士が手を結び,外側二つの炭素の電子が結合の相手を失った構造(図6-8(b))と外側の炭素同士のみの間にπ結合が生じた構造(図6-8(c))を両極端として,π電子はこれらの構造の間で行き来している,あるいは両構造が次の式で表すように激しく入れ替わっていると考えることもできる。

(6.13)


 これを共鳴効果という。

実際,ブタジエンのC‐C結合の長さは外側が1.345Åであり,内側が1.465Åである。

純粋な単結合と二重結合の長さはそれぞれおよそ1.53(エタン)と1.34Å(エチレン)であるから,ブタジエンの内側のC‐C結合の長さは中間的な値となっている。そして四つの炭素原子は同一平面上に配置している。

通常の化学式では単結合を1本の,二重結合を2本の線で結んで表示する。

二重結合と単結合が交互に繰り返す炭化水素を共役炭化水素とよぶ。

このような共役系において,π電子は特定の結合に局在しているのではなく,分子式で表現した二重結合と単結合が交互に並んでいる部分全体に,共鳴効果によって非局在化していると考えてよい。

このπ電子が非局在化している部分の分子構造は一般に平面形になり,結合の長さは単結合より短く,二重結合よりは長くなっている。

また後に述べるように分子は共鳴構造をとることにより安定化している。

あるいは非局在化エネルギーを得るともいう。このことの定量的な説明は4−(3)で述べる。


(3)sp混成軌道(パターン6-8,6-9

 アセチレンのような三重結合の場合も,同様な考え方で理解できる。

この結合は次のようなsp混成軌道による(図6-9)。

(6.14)
(6.15)


 この二つのsp混成軌道は直線のまわりに分布を持つ。

混成に関わらないは互いに垂直であり,かつsp混成軌道にも垂直である。

アセチレンのC‐C結合はC≡Cのように表記するが,それはsp混成軌道を用いる一つのσ結合と,それに垂直な空間分布を持つ二つの2p軌道で形成されるπ結合で構成されることを示している。