3. 多原子分子の立体構造

(1)単結合と回転異性(パターン6-10ムービー6-7

 炭素原子が二つある場合の飽和炭化水素がエタンである。

二つのメタン分子がそれぞれの水素原子を1個ずつ離し,その軌道を重ねるようにして結合を結び直したと考えればよい。

このようにしてできたエタン分子の立体的な形はどのようになっているかを次に考える。

C−C結合を作る分子軌道関数,およびそれを2乗した電子密度は軸対称性を持っている。

すなわち,C−C軸上の任意の場所で軸に垂直に切ったときの断面の関数および電子密度の等高線は同心円となっている。

この2次元平面は空間的に等価であるから,この分子軌道自身では両端の二つのメチル基の相対的な配置を決める “力”を持たない。

それなら,メチル基はC−C軸のまわりで全く自由に回転しているだろうか。

 一つのC−Cの結合軸に沿って遠方のメチル基の三つのC−H結合を見て,それらを軸に垂直な平面に投影すると,これら三つのC−H結合のなす角度は図6-10(a)のように120°である。

実験によると,二つのメチル基は図6-10 (a)のような配置が最も安定であり,(b)のような配置が最も不安定である。

水素原子と炭素原子に(c)のような番号づけを行う。

このとき,の作る平面との作る平面がなす角を二面角という。

二面角の変化(分子内回転)に対しポテンシャルエネルギーをプロットすると,図6-11のような曲線が得られる。

二面角が0から360°まで一周する間に安定,不安定の等価な配置を3回経験する。

そのポテンシャルの山の高さは約1030である。エタン分子の回転の障壁はメチル基同士の立体効果を含む複雑な要因による。


 基底状態にある分子は1秒間におおよそ2億回の割合で安定形から隣の安定形へトンネル効果で移っている。

このように障壁があっても比較的速いスピードで結合のまわりの回転を行っている場合を束縛回転という。

 エタンの両側にあるメチル基の水素原子を塩素原子で置換した分子が1,2‐ジクロロエタン(C2H4Cl2)である。

分子内回転のポテンシャル曲線は図6-12のようになる。

の二面角がおよそ68°(および292°)と180°の位置が安定形になる。

前者をゴーシュ(gauche)形,後者をトランス(trans)形という。

この二つの安定形は同じエネルギーではない。

このように分子内回転によって生じる空間配置の異なる分子を回転異性体という。

ジクロロエタンの場合,室温の液体では二つの回転異性体の混合物となっていて,相互に移り変わっているので化学的に分離することはできないが,スペクトルの上では明確に区別できる(第10章4−(1)参照)。

 C−C結合により無限に近いほどの種類の飽和炭化水素CnH2n+2およびそれらの水素を他の原子で置換した化合物ができあがる。

これらの飽和炭化水素は,炭素数が多くなると,炭素の結合に枝分かれが生じ,その枝分かれのしかたが異なる構造異性体*3が急激に多くなるだけでなく,C−C単結合のまわりの回転異性体も急激に増加する。

これらの飽和炭化水素は有機化学,生物化学においてきわめて重要な化合物である。

*3−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 例えば,C4H10には,CH3−CH2−CH2−CH3(n‐ブタン)とCH3−CH(CH3)−CH3(2‐メチルプロパン)がある。これらを互いに構造異性体という。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(2)二重結合と幾何異性(ムービー6-8

 単結合の場合と異なり,二重結合のまわりの回転障壁は非常に高く,通常は二重結合の両端での化学結合の方向は固定されていると考えてよい。

1,2‐ジクロロエチレン(C2H2Cl2)は図6-13に示した塩素原子に関して2種類の配置がある。

の二面角が0°のシス(cis)形と180°のトランス形は通常では入れ換えることはできず,化学的処理で分離できる。

このような異性体を幾何異性体という。したがって,二重結合は多原子分子の立体的な形を固定する役割があるといえよう。

 分子の立体的な形を考察する場合の用語が立体配座(コンフォメーション,conformation)である。

立体配座の要因は回転異性体が存在するためである。


(3)σ電子系とπ電子系の安定性と反応性(パターン6-11ムービー6-9

 炭素‐炭素の結合のうち,単結合を構成するσ軌道の結合エネルギーは通常,20eV程度,二重結合を構成するπ軌道電子のエネルギーは10eV程度である。

π軌道エネルギーは小さく,空間分布は広くかつ分子面から離れたところにある。

そのため,π電子は分子の束縛から容易に離れやすい。

これがπ軌道に入っている電子が反応など分子の性質に重要な役割を持つ理由となっている。