4.π電子の分子軌道法(パターン6-12)(ムービー6-10

 π電子は多くの有機化合物の反応や物性において,基本的な重要な役割を果たしている。

このπ電子のエネルギーや空間分布を理論的に計算する方法がヒュッケル分子軌道法である。

これは2p原子軌道のみの組み合わせでπ分子軌道ができると考え,その組み合わせの係数を第3章に述べた変分法の考えに基づいて決める方法である。

分子軌道理論としては最も単純な方法であるが,π電子が関係する多くの現象を半定量的に説明できる。

(1)ヒュッケル分子軌道法(パターン6-13

ヒュッケル分子軌道法に関する詳しい説明は付録に述べた。

ここでは,実際の分子を解く場合の要点のみを記すことにする。

π電子を供給することにより分子を構成する原子自身のエネルギーをクーロン積分αとよぶ。

π電子によって結びつく隣接原子の間の相互作用を表すエネルギーを共鳴積分βとよぶ。

これらの量は理論的に計算するのではなく,多くの実測データをできるだけ矛盾なく再現するように調整してある。

そして実際の計算にはあらかじめ数値の与えられたパラメーターとして扱う。例として炭素三つが直線的に結合したアリルラジカルを考えてみよう。(図6-14


(a)行列を作る:αとβを用いて,解くべき分子の結合形態に合わせてπ電子のエネルギー行列*4を作り上げる。アリルラジカルの場合は次のような3×3の行列となる。

    1 2 3 

(6.16)



対角成分にαを置き,π電子で結合している原子1と2,2と3に対応する非対角成分にβを入れる。原子2と3は結合していないからゼロとなる。

(b)固有値問題を解く:(6.16)式で表されるエネルギー行列をとすると,分子軌道のエネルギーはを対角化した固有値として得られる。

すなわち,適当な行列によって次の変換操作をすることにより,非対角成分をすべてゼロになるようにすることができる。

(6.17)


ここには対角成分が1で,非対角成分がゼロの単位行列である。

アリルラジカルの場合は,(6.17)式の右辺は

(6.18)



となる。

このを数学的には固有値とよび,これが分子軌道エネルギーとなる。

またこのように変換する行列の成分が,原子軌道関数が線形結合して分子軌道を形成するときの係数となっている。

すなわち,エネルギー行列を対角化することによって,分子軌道エネルギーが得られる。

行列の対角化による固有値は行列式=0を解くことによっても得られる*4。

すなわち,アリルラジカルの場合は

(6.19)


である。

行列式をどう計算するかは線形代数の知識を必要とするが,2行2列(2×2)あるいは3行3列(3×3)の行列式は簡単なので覚えておくと便利である。

これも付録に書いておいた。

(6.19)式の場合はεに関する3次方程式になり,その三つの根としてが得られる。

このの具体的な数値を(6.17)式に代入することにより行列C の成分を決定することができる。

*4−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

行列や行列式の意味を一言で説明することは容易でない。ここでは以下の説明をするが,詳細は適当な線形代数学の参考書で学んでほしい。分子軌道関数(固有関数)を素性の明確な(つまり関数形やエネルギーを明確に定義できる)原子軌道関数(基底関数)の線形結合(第4章1−(4)参照)で表現したため,分子軌道を解く問題は多元連立一次方程式を解く問題に変換される。この際,方程式の係数でできる2次元的に配列した数の組を行列という。行列では,行列の積と普通の意味での数値(スカラー値)との積が,行列の成分の間の関係で定義されている。行列式は成分の間のあらゆる組み合わせの積に一定の規則に従って正負の符号をつけて総和をとる演算を表し,その結果として求められる数値と考えてよい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(2)エチレンのπ分子軌道(パターン6-14

エチレンは炭素二つがπ結合で結ばれた系である。

4個の水素原子はπ電子系とは関係ないので考える必要はない。

したがって,エチレンのヒュッケル分子軌道法によるエネルギー行列式は次のようになる。

(6.20)



これから二つのπ電子軌道エネルギーεと分子軌道φは次のように得られる(付録D参照)。

(6.21)


(6.22)


クーロン積分αは孤立した原子の2p電子のエネルギーであり,共鳴積分βは2p電子がπ電子として二つの原子の間に介在することによって生じるエネルギーである。

αもβも負の値を持つ量である。

したがって,(6.21)式のはエチレン分子を形成することによって,βだけ安定化した電子のエネルギーが生じること,(6.22)式のはβだけ不安定化したエネルギーが生じることを示す。

2個の2p電子はパウリの原理に従って,エネルギーの安定化した(すなわち結合性の)に入ることができる。

結果として安定なエチレン分子が形成されると説明できる。それぞれの分子軌道を図6-15に示した。

 図6-15(a)は波動関数の絶対値が一定の点を結んだものである。

(b)は波動関数をC‐C軸に沿い,分子面に垂直な平面での切り口を示している。

ヒュッケル法で得られた分子軌道関数は原子軌道関数の線形結合であるから,その係数の大きさと符号が重要であり, (c)あるいは(d)のように表現する場合もある。

(c)は(b)の表示を破線の位置での値をプロットしたものであり,(d)の矢印は+と−の符号を横線の上下で区別し,大きさを矢印の長さに対応させている。

図6-10の(b)から(d)までは同じ意味内容の別の表現であり,考える問題に応じて適宜使い分けている。

(3)ブタジエンのπ分子軌道

ブタジエン分子は図6-8に示したように,すべての原子が同一面上にある平面分子である。

2p電子を供給してπ軌道を形成する四つの炭素原子のみを考えればよい。したがって,解くべきπ電子エネルギー行列式は

  (6.23)



であることが容易に推測できよう。

 この行列式を実際に解き(この計算を手計算で実行するには線形代数学の知識と多少の手間が必要である。3次以上の行列を数値的に演算するには計算機を用いて実行するのが現実的である),軌道エネルギーとLCAOMOの係数を求めると

(6.24)


を得る。

結合を形成することにより安定化した軌道はであり,他の二つの軌道のエネルギーは不安定になっている。

すなわちが結合性軌道であり,は反結合性軌道である。

 電子が詰まっている分子軌道のうち最もエネルギーの高い軌道を最高被占分子軌道(Highest Occupied Molecular Orbital: HOMO)といい,電子が詰まっていない分子軌道のうち最もエネルギーの低い軌道を最低空軌道,あるいは最低非占分子軌道(Lowest Unoccupied Molecular Orbital: LUMO)という。

HOMOとLUMOは分子の化学反応にとって非常に重要であり,これらの軌道の形(あるいは対称性)とエネルギーが反応の過程に直接に関与している場合が少なくない。

したがってこの二つの軌道をフロンティア軌道とよぶこともある。HOMOとLUMOの反応に対する影響は第8章で述べる。

 さて,炭素四つからの4個の2p電子はπ電子としてに2個ずつ入る。したがって,ブタジエン分子のπ電子の全エネルギーは

(6.25)



となる。

エチレンの二つが何の相互作用もなく連結したのならば,そのπ電子エネルギーはエチレン2個分でとなるはずである。

この差は(6.13)式で示した共鳴構造をとることによる安定化のエネルギー,すなわち共鳴エネルギーと考えることができる。

この効果が生じることの量子論的な根拠は,(6.23)の行列において,2,3(および3,2)の非対角成分に共鳴積分βが入っているためである。

この成分がなければ別々のエチレンが2個あることと同じになってしまう。