2.ミクロの世界からの手紙の解読(ムービー7-7)
第5章の3節で,分子の光電子スペクトル(光を照射することにより分子から飛び出してくる電子,すなわち光電子の運動エネルギーの分布)から分子に関する様々な情報が得られることをやや詳しく述べた。
ここでは,分子に電磁波を照射して得られるスペクトルを調べると,分子に関するどのような情報が得られるかを,二酸化炭素CO2の赤外吸収スペクトル(図7-1)を例にとって説明してみよう。
この節で述べることの詳細な理由は次章以下で改めて説明するので,今の段階では理解する必要はない。
前提として,この分子が炭素原子1個と酸素原子2個からなる分子であることは分かっているとする。
さて図7-1の赤外領域に現れたスペクトルは,一つのC=O結合が伸び,他方のC=O結合が縮むような振動運動に関係している。
すなわち,この振動の基底状態(υ=0)から励起状態(υ=1)への遷移(第10章参照)に伴って現れるスペクトルで,さらに分子の回転運動の状態の変化も伴っている(第11章参照)。
一見して多くのスペクトル線(これを回転線ともいう)の集合から成っているが,いくつかの規則性がある。
このCO2分子のスペクトルから,次のような多様な情報を読みとることができる。
1)スペクトル線の1本1本は,何らかのエネルギー準位間の吸収に対応する。それらのスペクトル線幅は非常に狭い。
すなわちCO2分子は幅の非常に狭い飛び飛びのエネルギー準位を持つこと,つまりエネルギーが量子化されていることが分かる。
2)吸収線の全体をバンドという。
このバンドの中心(2349cm−1)はC=O伸縮のバネの強さ(力の定数kという),すなわち結合の強さを反映したものである。
簡単な計算によりが導ける。この値は典型的な二重結合の強さを表している。
3)バンドの中心に対してほぼ等間隔の吸収線が左右対称に並んでいる。
このパターンは分子の形によって特徴があり,この分子が直線構造であることを示している。
4)前記の等間隔の幅は分子の慣性モーメントに反比例することが理論的に分かっている。
観測の幅はC=O結合の常識的な長さから予測される幅の2倍になっている。
これは慣性モーメントから予測されるスペクトル線のうち,一つおきの線がすべてスペクトルから欠落している,あるいはそれに対応するエネルギー準位が存在しないことを表している。
このことを合理的に説明するためには,酸素原子の核スピンがゼロ(12章参照)であり,O原子がC原子の両側に等価な原子として存在していることが結論される。
すなわち二酸化炭素の分子構造はO=C=Oである。
5)前記の事情を考えた上で,観測された吸収線の間隔(約)からC=Oの結合距離は1.162±0.008Åと計算される。
6)さて,このバンドの中心から左右に回転線の吸収強度は増加し,極大に達した後,減少していく。
この回転線のどこが極大になるかは,それぞれの回転エネルギー準位にどの程度の割合で分子の数が分布しているか,すなわちボルツマン分布((8-5)式参照)を反映している。
言い換えると,CO2分子が置かれている系の温度を示している。
図の場合には中心からx本目に極大があり,これからこの気体が入っていたセルの温度が約T=300K,すなわち室温にあったことが分かる。
温度が高くなると極大の位置は中心からさらに離れた所に移る。
7)バンドの中心付近で吸収線はほぼ等間隔であるが,バンド中心から離れるにしたがって,高波数側では狭く,低波数側では広くなっている。
これは回転運動が激しくなるにしたがい,遠心力の効果でC=O結合が伸び,慣性モーメントが減少することを反映している。
つまり,この伸びの程度から2)で得たのとほぼ同等の結果を得ることができる。
8)1)で得た吸収線の幅は非常に狭く,量子性を反映しているといったが,装置の分解能を上げてもスペクトル線の幅(半値全幅≒0.01cm−1)はそれ以上に狭くはならない。
これは回転エネルギー準位自身に有限の幅があることを意味している。
気体中の分子は互いに激しくぶつかり合って,分子間でたえずエネルギーを交換しあっている。
すなわち一定のエネルギーを保持する寿命はほぼ0.4 nsである。
この分子が持つエネルギー準位の幅ΔEと寿命τの間にはの関係がある。
さて,気体の圧力が高いほど(あるいは温度が高いほど)衝突の機会が多くなり,分子が一定のエネルギー準位にいる寿命が短くなり,エネルギー幅が広がる。
つまりスペクトル線の幅が広がるのである。観測した線幅はこの圧力幅を示している。
観測値から,気体試料の圧力は約50torr(6.7kPa)であると推定できる。
以上のように,スペクトルをもとにして分子および分子系の環境に関する情報が得られる。
分光法は到達する光(電磁波)を調べれば良いのであるから,分子がすぐ手元になくても良いし(遠隔測定),多くの場合に物質を物理的あるいは化学的に処理しなくても調べられる(非破壊測定)。
分光法による観測により得られるスペクトルから,分子やその環境が疑問の余地なく同定できる。次に分光法の一般的な基礎について述べよう。