3.分光学の基礎

(1)分子による光の吸収と放出(ムービー7-6

 分光法の基礎は,まず第1に,「分子はそれぞれの分子に固有の量子化されたエネルギーを持っている」ことによる。

この量子化されたエネルギーの一つ一つをエネルギー準位という。

一方,同種の性質を持つエネルギー準位の全体を状態という。

例えば,励起状態,基底状態,遷移状態,準安定状態,三重項状態のように分子の存在様式を表す(パターン7-8,7-9,7-10)。

以下ではこの準位と状態という言葉を適宜使い分けるが,本質的には同じことを指すと思ってもよい。

エネルギーの最も低い安定な状態が基底状態,その他のエネルギーの高い状態が励起状態である。状態(準位)間の移り変わりを遷移という。

遷移にはエネルギーの出入りを伴なう。そのうち,エネルギーが電磁波として供給あるいは放出される過程が吸収と放出である。

 分光法の基礎の第2は「分子はそのエネルギー準位の差に等しいエネルギーを持つ電磁波を吸収したり放出したりする」ことである。

つまり, 次の(7.1) 式が成立する。

 

(7.1)

 

電磁波のエネルギーが(7.1)式のΔEに足りなければ遷移は起こらないが,余分でも遷移は起こらない。

この両者がぴったりと一致しなければならないことに特に留意する必要がある。

 物質と光との相互作用を最初に詳しく考察したのはアインシュタインである。

彼は自然放出,誘導吸収,誘導放出の3種類があることを示した。

励起状態にある分子はいつまでもその状態に止まることはできず,励起エネルギーを電磁波として放出することにより,より安定な状態に移行する。

これを自然放出とよび,その確率をAで表す。

この放出過程は分子に光が当たっていてもいなくても同じであるが,そのほかに光の刺激を受けて起こる誘導吸収・放出がある。

 分子の誘導吸収・放出の確率はどれだけ強い光で照射されるかに依存する。

すなわち,光のエネルギー密度ρ(ν)に比例する。

エネルギーの低い状態(n)にある分子が光を吸収し,高い状態(m)に励起する誘導吸収の確率は

  

(7.2)



であり,状態(m)の分子から光が放出され,状態(n)になる誘導放出の確率は

(7.3)

      

と表される。

アインシュタインはであることを証明した。

 以上のことをまとめたのが図7-2である。

 通常の熱平衡状態にある分子の集まりに光を当てると,吸収が起こることがある。

それは次のように説明できる。

状態nとmにある分子の数をととし,吸収と放出の差引を計算すると,

(7.4)

      

となる。

室温程度の温度ではであるから,この系に光が入射すると吸収が起こる。

 ここで沢山の分子がどの準位にどれくらい分布しているかについての規則を述べておこう。

分子の系が熱的に平衡になっている場合には,の比は次のボルツマン分布則に従う。

(7.5)

ここでΔEは二つの準位のエネルギー差であり,kはボルツマン定数,Tは絶対温度(単位はケルビン,K)である。

この式は 「分子が取りうるエネルギー準位のうちどれに存在するかのチャンスは全く均等である」,しかし,「分子全体の合計のエネルギーは一定」であり,「分子の数はアボガドロ数(6.022×1023)程に沢山あり,しかも一定である」と仮定して統計力学の手法で導かれる(付録参照)。

(7.5)式は通常の温度では,エネルギーが高い準位ほど分布の割合が指数関数的に減少すること,言い換えれば大部分の分子が最も安定な低い準位に存在することを示す。

 図7-3に熱平衡状態にある分子の持つエネルギー間隔とエネルギー準位に分布する分子の相対的な数を示した。

 物質と電磁波がエネルギーのやりとりを行って熱的に平衡状態にある場合,系の温度(T),電磁波の振動数(ν)とそのエネルギー密度ρ(ν)の関係はプランクにより

(7.6)

      

であることが見いだされた。

ここには真空中の光速である。分子に光が照射されて,その系が定常状態にあるときには,

(7.7)

      

が成立する。

この式に,(7.5)と(7.6)の関係を代入すると

(7.8)

      

が導かれる。

 B係数は

 

(7.9)

     

のように導かれる。

については次の(3)で述べる。

B係数は電磁波の振動数νには依存しない量であるが,A係数はν3に比例すること,すなわちエネルギーが高い準位ほど自然放出の割合が大きくなることを示している。

(2)電磁波の種類とエネルギーの単位(パターン7-7)(ムービー7-5

 以上までの説明では「光」と「電磁波」という言葉をあまり区別せず用いてきた。

実際,これらは同一のものとして書いたし,今後も特に断らない限り「光」は電磁波一般を意味すると思ってよい。

しかし,一般には「光」はわれわれの眼で感じることのできる「可視光線あるいはその両端に近い紫外あるいは赤外光」を意味し,その場合の「光」はより広義の意味を持つ電磁波の一種ということになる。

電磁波は波長領域により図7-4に示したよび名で区別されている。しかしその境界は明確なものではない。

 電磁波の持つ光子としてのエネルギーはである。エネルギーのSI単位はジュール(J)であるが,電磁波のエネルギーをJで表すことは少なく,波長領域によって図7-3および表7-1のような使い分けをすることが多い。

振動数の低い電波からマイクロ波領域では,エネルギーに比例する振動数(周波数)ν(単位はヘルツ,Hz = s-1)を用いるほうがより直接的である。

しかし,赤外線より短波長の電磁波を振動数で表現すると膨大な桁数になってしまうので,可視光線より短い光に対しては波長λ()で表す。

可視光線から紫外線にかけてはnm(10−9m)を,X線領域ではÅ(10−10m)を用いることが多い。

波長はエネルギーとは反比例する量であるから,波長が短いほど高エネルギーの電磁波ということになる。

中間的な赤外線領域では波長の逆数である波数(1cmの中に含まれる波の数)を用いることが多い。

これらの表し方の間の換算については付録Xに示した。

 紫外線の照射で分子から電子が飛び出したり,電子との衝突で分子のエネルギー準位の遷移が起こる場合がある。

このような現象を記述する場合には,eV(電子ボルト)をエネルギーの単位として用いると便利である。

1eVは1Vの電位差の間で加速されることにより電子が得る運動エネルギーである。

(3)分子運動の種類

 分子の量子化されたエネルギーは,波数で表わして0.1から100,000程度(電磁波にするとラジオ波から紫外線)までの非常に広い範囲の値を持ちうる。

そしてエネルギーが高い領域ほど準位が密に詰っている。

しかし,スペクトルを分光器で実際に測定してみると,0.1〜10 (マイクロ波), 100〜4,000 (赤外線), 20,000〜100,000 (可視・紫外線)のほぼ2桁ずつ異なるエネルギー領域に分割できることが分かる。

 これは分子運動をその種類に分割して考えてよいことを反映している。

電子の質量は原子核の質量に比べて4桁ほど小さい。

したがって,電子の運動は原子核の運動に比べて非常に速く,原子核のどのような配置にも即座に追随する。

このことから,電子の運動を扱うときには,原子核は静止していると考えてよい(ボルン?オッペンハイマー近似,第4章1−(2)参照)。

原子核の運動は,結合距離が伸縮したり角度が変化する振動運動と分子全体の回転運動との二つに分離できる。

 エネルギー準位は分子の大きさ,形,あるいは電子的な性質などで決められる。

したがって,スペクトルによりエネルギー準位を実験的に決定し,それをさらに理論的に解析することにより,化学結合の強さ,長さと角度,電子の配列=分子軌道など分子についての情報を得ることができる。

この電子の運動,振動運動,回転運動およびスピン運動を反映する分光法をそれぞれ,第8,9章,第10章,第11章および第12章でさらに詳しく述べる。

(4)遷移の選択律(パターン7-11)(ムービー7-8

 二原子分子を例にとって,この分子のエネルギー準位が定性的にどのようになっているかをエネルギーの低い方から述べてみよう。

1) まず,一定の規則で間隔が段々と広がる準位がある(図7-5,A)。これは回転運動によるものである(第11章参照)。

2) 下から数100〜数1000(例えば波数)の位置から1)のパターンが繰り返すエネルギー準位が重なる。さらにほぼ2,3,… の間隔で同じような繰り返しが見られる(図7-5,B)。このは振動運動によるエネルギーである(第10章参照)。

3) 下から数万〜数十万の位置(例えば波数)からは2)の振動と回転によるエネルギーパターンがさらに重なってくる(図7-5(C))。このは電子の軌道運動の励起によるものである。

 以上から,分子のエネルギー準位の間隔は下の方では比較的粗いが,エネルギーが増大するにつれて次第に間隔が密になり,さらにエネルギーが高い領域ではほとんど連続と言ってよいほどに密になることが分かる。

ボルツマン分布則に従って,エネルギーの低い状態に大部分の分子があるとし,もし吸収の遷移があらゆるエネルギー準位間で起こるとすれば,吸収スペクトルはエネルギーの低い方から段々と密になり,可視・紫外線領域ではほとんど連続スペクトルになるに違いない。

実際にこの分子に波長の長いマイクロ波から順次短い波長へと電磁波を当てて,吸収の強度をプロットしたものが図7-5の右のパターンである。

 以上のことから,電磁波の吸収や放出は, (7.1)式で述べたように分子のエネルギー準位間隔と電磁波のエネルギーがぴったり一致すれば常に起こるものではなく,「電磁波の吸収?放出を伴う遷移は特定の準位間でしか起こらない」ことが分かる。

これが(1)で述べた分光法の基礎の第1と第2に続く第3の基礎である。

どのような状態間で遷移が起こるかを決めるのは(7.9)式にある遷移モーメントであり,次のように表される。

(7.10)


この式の中のは双極子モーメントベクトルであり,

(7.11)


とはそれぞれi番目の粒子の電荷および位置ベクトルである。

(7.10)式は第2章(2.33)で述べた期待値を表す式に似ている。

電磁波によって誘起された分子のという性質が状態に作用し,状態に変化し得る期待値と考えることができる。

振動数νで振動する電磁波が分子に照射された場合を考えよう。

この電磁波は+と−の電場の位相がνの振動数で変化している。

分子がこのνの振動数の電場に共鳴する分子固有の双極子モーメントを持つと,その双極子モーメントが誘起される。

この双極子モーメントは固有状態に影響を与え,さまざまな固有状態の重なりで表現できる状態に変化させる。

このうちにエネルギーがhνだけ異なる状態がある場合には,電磁波のエネルギーを吸収(放出)して,分子はその状態に遷移する。

これが(7.10)式の内容である。したがって,遷移モーメントがゼロでなければ,そのような遷移が実際に起こりうることを保証しているわけである。

がゼロであれば,いかに強い電磁波を分子に照射しても,分子はそのエネルギーの状態を変化させることは原則として有りえない。

の場合を禁制遷移, を許容遷移という。

 次に(7.11)式の双極子モーメントをもう少し詳しく調べてみよう。

双極子モーメントは分子に固有の量であるが,その量は分子の様々な運動状態によって変化する。

分子を構成する各原子が平衡位置に固定された場合を想定したとき,その双極子モーメントを永久双極子モーメントとし,結合距離の伸縮や変角の運動を一般的にqと表し,構造の変化に伴うμの変化する割合をとすると,

(7.12)


と書き表すことができる。

ここでΦは分子の双極子モーメントが回転によって空間での方向を変えることを表す。

ここでは電磁波の電気ベクトルの方に投影する割合を示す。

一方,分子の波動関数は電子,振動,回転,およびスピン運動に分離できるとすると

(7.13)


となる。

電子基底状態での遷移モーメントに限って考えると,(7.10)式は,

    

(7.14)


のように各運動に関連した遷移モーメントに分離して展開できることになる。

 (7.14)式の第1項は回転運動に関する遷移の規則を決めており,この遷移が起こるためにはが必要条件となる。第2項は振動運動に関する規則であり,この遷移が起こるためにはが必要条件となる。

電子遷移の場合にはが電子状態の関数になっていると考えればよい。

さらにそれぞれの項の積分がゼロにならないことから,遷移の前後の回転や振動状態を表す量子数の変化に束縛条件が生じる。

つまり量子数に関する選択則が導かれる。

 以上の議論をまとめると,分子が電磁波を吸収・放出して遷移を起こすためには,以下の規則が成立しなければならない。

(a) 共鳴条件:

(b) 双極子モーメントの条件

  回転運動: 永久双極子モーメントを持つ()。

  振動運動: 振動に伴い双極子モーメントが変化する()。

  電子運動: 電子状態の変化で電荷分布が変化する

(c)量子数条件:ΔJ = ±1, Δυ = ±1など

 これらの遷移に対する条件をまとめて,遷移の選択律という。

条件(a)は電磁波と分子との全体のエネルギーが保存される条件である。

電磁波とは振動数νで電場(とそれに垂直な磁場が)が進行方向に垂直に変動しているものである(横波)。

電磁波が分子と相互作用する,すなわち分子を認識するには,電磁波の刺激(誘導)に対応する分子の性質(双極子モーメント)がなければならない。

これが条件(b)の意味するところである。条件(c)からスペクトルのパターンが決定される。

(5)スペクトル

 前の(5)で述べた遷移の選択律のうち,条件(b),(c)がスペクトルにどのように働いているかをいくつかの実際の例で調べてみよう。

 空気の大部分を占めるN2やO2のような等核二原子分子は永久双極子モーメントがゼロなので,回転運動による電磁波の吸収は起こらない。

これらの運動によってマイクロ波から遠赤外線へのエネルギー領域にかけてエネルギー準位が確かに存在することは,様々な実験によって分かっている。

しかし実際には,どんなに強い電磁波を照射しても吸収は起こらないし,電磁波の放出も観測されない。

空気中に0.03%存在する二酸化炭素(CO2)も,回転運動による電磁波の吸収を起こさない。

 一方,N2とO2の伸縮運動によるエネルギー間隔(υ=0とυ=1の間のエネルギー差)は,それぞれ2330と1556 cm-1に相当する。

これは赤外線に対応するが,これらの大気成分は赤外線を全く吸収しない。

もし吸収があれば太陽光からのエネルギーを吸収し,地上の大気はおそらく数百℃になってしまうだろう。

CO2 には三つの型の振動がある(第10章参照)。

このうち1388cm-1にある振動はC=O結合が同時に伸びたり縮んだりする振動である。

この型の振動では中心対称性が常に保たれ,+と−の電荷が一致しているので,振動に伴う双極子モーメントの変化はない。

すなわちであり,この振動運動に伴う赤外線の吸収・放出はない。

一方,片方のC=Oが伸びるとき他方のC=Oが縮む型の振動(逆対称伸縮振動)と,O=C=Oの角度が変化する型の振動(変角振動)では,振動によって電荷に明らかに偏りができる。

したがって,これらの振動に付随する双極子モーメント変化はゼロではない。

すなわちであり,ガスのCO2分子は逆対称伸縮振動と変角振動に対応するスペクトルが,それぞれ2349および667cm-1を中心として観測される。

図7-1に示したのがその一例である。

さて,地球表面の平均温度はおよそ25℃であり,この温度に対応する熱放射がある((8.6)式)。

T=300Kでの放射の最大ピークにより計算できる。それによると=1200(約9μm)である。