第8章−π電子系の電子構造

 われわれは自然界の様々な色を感じとる。(パタ-ン8-1,8-2,8-3, 8-4,8-5)(ムービー8-1

物質には固有の色がある。この色の感覚は波長が約400〜700 nmの可視光線の様々な組み合わせによって生じる。

物質の色はもっぱら電子の働きに起因する。

一方,物質レベルでみた生命活動は多くの分子の組織だった反応の系であり,電子が反応の仲立ちをしている。

新機能を持つ物質の創製も分子の中での電子の働きを理解するところから始まるといってもよい。

これらの電子の働きのうち,多くの有機化合物で最も重要なπ電子についての量子化学を学ぶ。

1.物質の色と電子構造

(1)物質の色(パターン8-68-78-88-98-10,8-11)(ムービー8-2


 物体に色がついて見える原因として,第一に回折や屈折によって,反射した光が分散し様々な波長に分解される場合がある。

コンパクトディスクの表面の角度を変えてみると,様々な色に変化する。(ムービー8-1

これはコンパクトディスクの表面に規則的な細い溝があるため,反射の方向により特定の波長の光だけが強め合い,他の波長の光は打ち消し合う干渉効果のためである。(パターン8-5

虹の七色はそこの水滴が着色しているわけではなく,水滴がプリズムの役割を果たして光を屈折しているためである。(パターン8-4)

光の波長により屈折率が異なるため,水滴(プリズム)を通過した光は単色光に分散される。

 物体に色がついて見える第二の原因は,物体それ自身の性質が色の原因になっている場合である。

この場合にも物体自身の発光による場合と反射による色とを区別する必要がある。

テレビのブラウン管の内側表面には,電子が当ったとき,赤,緑,青の蛍光を発する色素が塗付してある。

この3色の様々な混合であらゆる色を作り出すことができる。

自ら光を出している場合の赤(Red),緑(Green),青(Blue)を光の三原色という(カラー口絵参照)。

パターン8-10

 花や絵画の色のような物体の色の大部分は反射による色である。

例えば太陽光の下にあるりんごの赤は,青と緑色領域の波長の光が吸収され,吸収されなかった赤色の波長領域の光がわれわれの目に入った結果である。

りんごの表面を構成する分子は青と緑の波長領域の光を吸収する。

したがって,青の光だけを出すランプの下でりんごを見れば黒っぽく見えるはずである。

 色の三原色というのは黄(Yellow),赤紫(Magenta),青緑(空色)(Cyan)であるが,これはそれぞれの色素が青,緑,赤の波長領域の光を吸収し,残りの波長の光をわれわれが目にしたときに感じる色である。

物質が吸収する波長の色と吸収されないで反射した光に対して我々が感じる色は補色の関係にあるという。

例えば(赤と緑の光の混合で得られる)黄色と青は補色の関係にある。(パターン8-10,8-11

(2)分子の電子遷移と分子の色(パターン8-128-138-148-158-16)(ムービー8-3

 分子が吸収する可視光線の波長の色とその分子の色は補色の関係にある。

この色と関係する可視光線の吸収は,電子の遷移に伴うものである。

分子の中にある電子は存在することができる場所があり,それを分子軌道という。

分子の電子エネルギーはこれらの分子軌道にどのように電子が配置しているか(これを電子配置という)で決まる。

電子基底状態と励起状態で対応する分子軌道の軌道エネルギーは同じであると仮定すれば,分子全体としてのエネルギーの差は電子遷移に関係する分子軌道(すなわち遷移を起こした電子が移った後の軌道と移る前に入っていた軌道)のエネルギーの差に等しいことになる。

以下では,この仮定が近似的に成立していると考える。

 天然にある植物や人間が使う衣料,化粧品,その他の色素の色は,そこに含まれるπ電子の遷移と関係している場合が多い。

多くの場合,π電子は共役二重結合を持つ化合物の最高被占分子軌道(Highest Occupied Molecular Orbital;HOMO)にある電子である。

そのπ電子は光を吸収して,最低非占分子軌道(あるいは最低空分子軌道)(Lowest Unoccupied Molecular Orbital;LUMO)に遷移する。

このHOMO−LUMO電子遷移はエネルギーの最も小さい遷移であり,分子の色に最も大きな影響を持つ。

π電子の分子軌道は第2章で扱った自由分子モデルあるいは第6章(および付録)で述べたヒュッケル法でも計算できる。

(3)分子の大きさと軌道エネルギー

 弦楽器では弦を指で押さえて,振動できる弦の長さを変えることで音の高さを調節する。(ムービー8-3

振動する弦が長ければ低音になり,弦が短ければ高音になる。弦は基本音(ν)とその2倍音(2ν),3倍音(3ν),…の重なりになっている。

その関係を模式的に図8-1に示した。

 振動数νを持つ電磁波のエネルギーはである。

一方,ミクロの粒子は物質であると同時に波動の性質を持っている。

波動とは波長と振動数が定義できるということである。

そして波動としての振動数がνの粒子はのエネルギーを持つことになる。

 分子の中の電子は分子軌道というミクロの空間に閉じ込められていると考えてもよい。

その電子のエネルギー間隔は自由電子モデルでも見たように(第2章(2.52)式参照),電子が入る空間が小さいほど大きくなる。

電子の持つ振動数は電子波動関数の空間的広がりと位相の変化の数で決められると考えてよいであろう。

図8-2にヒュッケル法によって解いたエチレンとブタジエンのπ電子波動関数を示した。

 エチレンのC‐C結合方向の長さはブタジエンに比べて短く、最低エネルギーの波動関数(図8-1の弦の例でいうと基本音の波に対応する)の波長は,ブタジエンの波動関数の波長より短い。

波長と振動数は反比例の関係にあるから,ブタジエンのπ電子の方が振動数が高いことになる。

すなわち,安定化のエネルギーが大きく,エネルギー間隔も大きいことになる。

(4)直鎖ポリエンの電子構造と吸収スペクトル

 π電子を一次元空間に閉じ込めた系に対応するのが鎖状ポリエンである。

図8-3にヒュッケル法で得たHOMOとLUMOのエネルギー準位を示した。

鎖の長さが長くなるほど,HOMO−LUMOの間隔が段々と狭くなってくる。

エチレンやブタジエンではそのエネルギー差が紫外線の領域にあり,可視光線には何の影響もない。

したがってこれらの分子は無色透明である。

しかし二重結合が4個以上になると,青色側から可視光線の吸収が始まり,色素分子となる資格を持つようになる。

(5)多環芳香族化合物の電子構造と吸収スペクトル

 一方,ベンゼン環を単位として少しずつ大きくしていった一群の化合物,多環芳香族化合物がある。

ベンゼン環が二つ縮合したものがナフタレンであり,三つがアントラセンである。ベンゼンやナフタレンは無色であるが,環が大きくなるにしたがって着色してくる(表8-1)。

これらも自由電子モデルで考えれば,π電子がより大きな空間で運動できるようになり,HOMO−LUMOの間隔が狭くなったためであると考えられる。

鉛筆の芯に使われている黒鉛(グラファイト)は多数のベンゼン環が縮合したものであり,電子エネルギーが連続に近いほど密になり,あらゆる波長の可視光線を吸収するために黒色となるのである。

(6)フェノールフタレインの色の変化

 フェノールフタレインは酸性あるいは中性の溶液中では無色透明であるが,アルカリ性にすると赤紫色になり,中和反応の指示薬として使われている。

酸性における構造では,電子構造は三つのベンゼン環が別々にあるものとほぼ同じであり,電子遷移は紫外線領域にある(図8-4)。

アルカリ性溶液中ではプロトンが引き抜かれた結果,共役系が分子全体に広がり,π電子の存在する空間が広がった結果,電子遷移が可視光線の領域に移動してくる。

552 nmの緑色の波長の光が吸収された結果として,その補色の赤紫色が溶液の色として認識される

(7)植物の色,視物質(パターン8-17)(ムービー8-4

 植物の葉の色は,葉緑体の中のクロロフィルが赤と緑の光を吸収し,吸収されない緑の光が反射されるためである。

秋になり,黄葉(紅葉)する原因はこのクロロフィルが破壊され,共存していたキサントフィルやアントシアニンのような直鎖ポリエンの赤,橙,黄色が発現したためである。

 人間の目の視覚は,網膜中にあるロドプシンを含む視細胞による光の検出から開始し大脳に至る生理過程によるものである。

ロドプシンの受容体には図8-5のような共役二重結合化合物,レチナール分子が含まれていて,可視光線はまずこのレチナールを励起し,シスートランス異性化を誘起する。

オールトランス体はロドプシンの受容体から離れ,幾つかの素過程でエネルギー変換を起こし,最終的にシス体に戻り,元の受容体に収まる。

このエネルギー変換が脳に至る視覚のパルスを起こす。

レチナールの中のπ電子の遷移が光を捕らえる検出器の役割を果たしているといえよう。