3.軌道の対称性と立体特異反応
(1)ヘキサトリエンの熱および光による閉環反応
π電子は有機化合物の化学反応に深く関わっている。
分子の反応性における個性はその立体構造と反応部位の形と配置,反応に関わる分子軌道のエネルギーによって決められる。
ここでは第6章に述べたヒュッケル法の結果をさらに応用することにする。
図8-17はトランス-シス-トランス-1,6-ジメチルヘキサ-1,3,5-トリエンと,その加熱および紫外線照射による反応生成物を示したものである。
二重結合の系の組み直しが起こり,1位と6位の炭素が単結合で結ばれて6員環が形成される。
この際,元の分子の1と6位の炭素原子に結合していた二つのメチル基が環平面に対して同じ側(シス型)になるか,あるいは反対側(トランス型)になるかが,熱反応と光反応とでは全く逆の結果になる。
反応は非常に高い立体特異性がある。
すなわち熱反応ではシス型だけ,紫外線照射ではトランス型だけしかできない。
これはどうしてだろうか。
図8-18にヘキサトリエンのπ電子軌道関数を定性的に図示した。
横軸に炭素原子の位置を置き,エネルギーの低いほうから四つの軌道を見ると,関数がゼロとなって符号を変える点,すなわち節の数は,エネルギーの低い順に0,1,2,…となる。
それらは炭素の3位と4位の中点に対して偶関数,奇関数,偶関数,…となっている。
ヘキサトリエンは主に1位と2位,3位と4位,5位と6位の2p軌道が手を結んでいると考えてよい。
図8-17の環を形成するには,1位と6位の2p電子がそれぞれ2位と5位の2pとの手を切って,互いに手を結び直す必要がある(同時に2と3,4と5が手を結び直している)。
結合の手を結ぶのは,エネルギーが相対的に不安定な軌道に入っている電子である。
加熱による反応では,電子の励起はない。
したがって,結合の切断と再結合に関与するのはHOMOに入っている電子である。
ヘキサトリエンの場合には1位と6位の2p電子軌道関数の符号(位相)は分子平面に対して同一方向にある。
したがって,この二つの2p軌道が同一符号で重なるためには,図8-19(b)に示したように,C‐C軸に対して反対向きに回転する必要がある。
その結果,1位と6位についていたメチル基は平面に対して反対側に配置することになる。
一方,紫外線照射によりHOMOに入っていた電子の1個はLUMOに励起しており,反応に関与するのはLUMOに入っている電子である。
LUMOは奇関数であり,1と6位の符号は反対になっている。
したがって,1と6の原子を結び付けるためには,同符号で関数が重なる必要があるので,C‐C軸に対して同じ向きに回転する必要がある(図8-19(a))。
結果として,前記の熱反応の場合と逆にメチル基は平面の同じ側に配置することになる。
以上のように,化学反応が容易に起こりうるかどうか,生成物の構造や反応過程が,HOMOやLUMOの対称性を理論的に考察することによって行える。
HOMOとLUMOが分子の性質や反応に関係する一義的に重要な軌道であることから,フロンティア軌道とよぶこともある。
反応過程を通じて軌道の対称性が保たれること,したがって,軌道の対称性が反応性と生成物の立体構造をも支配することを初めて解き明かしたのが,ウッドワードとホフマンおよび福井謙一(第15章参照)であり,有機化学の基本的な指針となっている。
これらの実例はこの講義と同時に開講されている
「物質の科学・有機化合物」に豊富に紹介されている。
(2)軌道間相互作用-摂動の考え方
第6章で説明したように,エチレンのπ電子分子軌道のエネルギーεは,ヒュッケル行列を対角化すれば得られる。
すなわち,再度示すと,
(8.1) |
である。
(8.1)式の計算からε=α±βが求まる。この計算について,もう一度考えてみよう。
もし,隣接する原子間に相互作用がなければβ=0であり,解くべき式は
(8.2) |
である。
この方程式は対角項のみを考えれば良いので,二重に縮重した解が
得られる。これは当然,孤立した炭素原子の固有エネルギーである。
αの2p軌道エネルギーをもつ二つの炭素原子が近づいてβのエネルギーの相互作用が生じた場合,系のもつエネルギーεは(8.2)式を解けばよいということである。
以上のことを一般化すると次のようになる。
エネルギーaとbをもつ二つの状態(とする)の間にcというエネルギーの相互作用が生じた結果,その系のエネルギーεを計算するには,次の式を解けばよい。
すなわち
(8.3) |
である。
この2行2列の行列式は容易に展開できて(付録D‐1.参照),
(8.4) |
となる。
これはεに関する2次方程式であり,書き直すと
(8.5) |
である。
2次方程式の根の公式を用いると,解εが次のように得られる。
(8.6) |
さて,相互作用cの大きさが,もともとのエネルギーaとbの差より十分小さい場合,すなわち
(8.7) |
の場合には(8.6)を
(8.8) |
と書き換えて,
(8.9) |
の近似式を用いると,((8.8)式の場合にはであるから)
(8.10) |
となる。
相互作用した結果,エネルギーは上下に等しい値δεだけシフトする。
すなわち,
(8.11) |
である。
相互作用がエネルギー差に比べて十分小さい場合,相互作用の効果を以上のように,摂動として扱うことができる。
この摂動によってシフトするエネルギーが(8.11)式のように表される場合,これを2次摂動エネルギーという。
2次摂動エネルギー*1は,エネルギー差に逆比例し,相互作用エネルギーの2乗に比例する。
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原子・分子系では,周囲からのわずかな相互作用によって系の波動関数は孤立系の場合から少し外れ,エネルギーも孤立系の場合に比べて少しシフトする。このように比較的弱い相互作用が系の状態に及ぼす影響は,系の化学的性質を考えるときに重要な意味を持つ。たとえば,錯体で中心原子の周囲を配位子が取り囲んだとき(第9章参照),相互作用の弱い溶媒分子が溶質の分子を取り囲んだときなどである。このような場合の波動関数とエネルギーが孤立状態の値からどのようにシフトするかを良い近似で計算するには,摂動法の考え方が用いられる。たとえば,分子が弱い電場に置かれたときのエネルギーのシフト(シュタルク効果)は,相互作用の大きさ(印加された電場の強さ)に比例する。このシフトの大きさは,相互作用項の1次式で表されるので1次摂動のエネルギーという。上記の(8.11)では,相互作用の大きさcの2乗に比例するので,2次摂動という。摂動法は,変分法と並んで量子化学における重要な近似計算法である。その詳細については,参考文献を参照されたい。
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これを比喩的にいうと次のようになろう。
ボクシングの試合を考える。
パンチ力が強ければ(cが大きければ)相手に対する効果は大きい。
しかしどんなにパンチ力が強くても互いに遠く離れて打ち合っても(が大きければ),相手に対するダメージは少ない。以上を分子軌道の間の相互作用に適用すると次のようになる。
軌道間の相互作用は分子軌道(MO)の重なりに比例するが,これはMOを構成する原子軌道(AO)の重なりに比例する。
すなわち大きなLCAOMOの係数をもつ部分の重なりが大きいと相互作用が大きくなる。
同符号の重なりはエネルギーを安定化する引力に働き,異符号の重なりはエネルギーを不安定化する反発力として働く。
この相互作用は互いのエネルギーが近接するほど大きい。
以上の2次摂動の近似は前述したの条件下で成立する議論である。
が小さくなると(8.11)式は発散してしまうことに注意しよう。
摂動の近似が使えない場合には行列式=0を直接解く必要がある。
と同一のエネルギー準位をもつ(縮重)状態が相互作用する場合が(8.1)であり,エネルギーのシフトの大きさは非対角項と同じになる。
つまり,(8.1)の場合にはβである。