第9章 d電子系の電子構造

d電子は周期表の第3族から第11族に属する遷移金属の化学を支配する。
(パターン9-1)(ムービー9-1

遷移金属錯体の分子構造,スペクトル,磁性,反応性などには金属種,酸化状態,配位子の影響により決まるd電子の電子構造が直接関係する。

遷移金属錯体が関与する触媒,有機合成,金属酵素,機能材料などの最先端の化学を理解するには,d電子系の電子構造を十分に知ることが必要である。

前章までに学んだ量子化学の基礎を発展させてd電子の電子構造を考察してみよう。

1.d軌道の形と分裂(パターン9-2,9-3) (ムービー9-2

原子の電子軌道関数の形は方位量子数により決まる(第3章1.(4)参照)。

5個のd関数()は,直交座標表示で軌道がそれぞれ座標軸の二等分面上に,また軌道は軸方向にひろがるクローバー形のローブ(空間的な形と広がり)を持ち,軌道は軸方向のローブと平面上の環から成る。

図9-1にd軌道関数の形と位相を示した。(パタ-ン9-4)(ムービー9-3

一般に,位相の符号はローブにつけた正負の記号あるいは白黒で表す。

d軌道の電子密度は波動関数の2乗に比例するので((2.31)参照),電子密度分布の様子はd軌道関数の形に似ているが,正負の区別はない。

電子密度は単結晶X線構造解析などにより実験的に定められるが,原子軌道自身は実験的に観測できない。

しかしながら,理論計算によりその形状を明らかにすることはできる。

 遷移金属錯体は金属イオンにアニオン性あるいは中性の配位子が結合してできる化合物であり,金属イオンに結合できる配位子の数は2個から多くて9個くらいである。

金属錯体は金属を中心にして配位子が立体的に結合しているので,配位原子を線で結ぶと種々の配位多面体を構成する。

配位数が6と4の化合物が最も多く,これらの結合,構造,反応性はd電子の性質に深く関連している。

d電子の性質を理解するために,対称性の高い構造である6配位正八面体錯体(図9-2)(パターン9-2,9-3)を中心に述べる。

 金属自由イオン中でd軌道のエネルギーは5重に縮重している*1。

しかし6個の配位子が配位して正八面体対称の環境におかれると,3重縮重のと2重縮重のの二つの異なるエネルギー準位に分裂する。

この分裂エネルギー差は配位子場理論,および分子軌道法によって計算できる。

定性的考察には配位子場理論が有用であるが,計算結果を実験値に合わせるためには,パラメーターを導入して調節する必要がある。

これに対し分子軌道法は,計算法の進歩とともに精度が高くなり,金属と配位子の結合の定量的解析に最も適した方法といえる。

*1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

空間的な軌道の形や広がりが異なっていても,エネルギーが全く等しい準位がある場合,これらの準位あるいは状態は縮重しているという。縮重度が2,3 の場合をそれぞれ,2重縮重,3重縮重という。

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