2.d電子軌道の理論的扱い

(1)配位子場理論(パターン9-5,9-6,9-7,9-8,9-99-10,9-11,9-12)(パターン9-13,9-149-15)(ムービー9-49-5

 この理論では配位子の構造や軌道の形などを無視して,配位子を負の点電荷あるいは双極子の負電荷の端とみなす。

配位子のおよぼす静電場を配位子場という。

金属イオンに配位子が配位すると,金属軌道中の電子と配位子の負電荷の間にクーロン力による反発相互作用が生じる。

その大きさは二つの負電荷が空間的に近いほど大きくなる。

したがって,この相互作用の大きさは金属のd軌道のローブの方向により異なる。その結果,金属軌道のエネルギー準位は錯体の配位構造に依存して1〜3eV程度分裂する。

たとえば,の錯体イオンでは,配位子H2OおよびNH3図9-2に示すように中心金属のまわりに正八面体状に配置されている。

金属Mの,軌道は座標軸方向,軌道は座標軸の中間方向を向く。配位子Lを座標軸上に置くと,d軌道と配位子の反発相互作用は(,)の方が()より大きい。

前者の方が金属と配位子の軌道が近接するためである。

その結果,5重にエネルギーが縮重していたd軌道の準位が二つの組に分裂する。

エネルギーがより不安定になる前者の二つの組を軌道,後者の三つの組を軌道とよぶ。

この分裂のエネルギー差を配位子場分裂パラメーターとよび,で表す(図9-3)。

 配位子により負の有効電荷が異なるので,の大きさは配位子の種類により異なる。

分裂前の平均エネルギーEoと二つの組のエネルギーの差をそれぞれA,Bとすると,2重縮重の軌道と3重縮重の軌道の全エネルギーは分裂前の軌道エネルギーに等しいので,

(9.1)


(9.2)

が成り立つ。

すなわち

(9.3)

(9.4)

となる。

したがって軌道はEoより軌道はの位置にシフトする。

 分裂した軌道に電子を個,軌道に個詰めると,この電子配置に対するエネルギーは

(9.5)

になる。

この値を配位子場安定化エネルギー(ligand field stabilization energy)という。負の値が大きい程その電子配置は安定である。

 一つの軌道に2個の電子がパウリの排他原理に基づき反平行のスピンで入ると,強い静電反発作用がある。

この相互作用エネルギーをスピン対形成エネルギーP(spin-pairing energy)(20000 程度)という。

d電子が3個以下であれば,フントの規則(付録E参照)により軌道に平行スピンで入ることにより最もエネルギーが低くなる。

この場合の例として,(thf=テトラヒドロフラン),(acac=アセチルアセトナト)などがある。

4個目の電子も低いエネルギーのに入れると同じ軌道に2個の電子が共存するので,Pのエネルギーを余分に要する。

したがってエネルギーは

(9.6)

になるが,4個目の電子を軌道に入れれば

(9.7)

になる(図9-4)。

二つの電子配置のエネルギー差はであるので,配位子のd軌道に対する影響が強く(強い場),スピン対形成エネルギーPより大きいの場合は配置(例:)が有利であり,この場合を強い場または低スピン(low spin)電子配置という。

であれば配置(例:)が有利となり,弱い場または高スピン(high spin)電子配置という。

d電子が5個,6個,7個の場合も同様に電子配置に二つの可能性があり,強い場の場合は低スピン配置(例:),(例:),(例:)をとり,弱い場の場合は高スピン配置(例:),(例:),(例:)をとる。

d電子が8個,9個,10個の場合は配位子場の強さに依存せず,電子構造は一義的に定まり,それぞれ(例:),(例:),(例:,この化合物はイオン性固体化合物である)になる。

配位子場の強さと電子配置の関係を表9.1に示す。

(2)正八面体錯体の分子軌道法

 チタン,クロム,コバルト,銅などの遷移金属に6個の配位子が正八面体に配置した錯体の分子軌道はどのようなエネルギーの順に並ぶのかを考えてみよう。

中心金属Mは1個のs軌道,3個のp軌道,5個のd軌道と合わせて9個の軌道を持っている。

一方6個の配位子の配位原子はそれぞれ1個のs軌道と3個のp軌道を持つので合計24個の軌道がある。

すなわち金属の9個と配位子の24個の原子軌道の重なりから錯体の分子軌道が構築される。

その際,金属と配位子の電子波動関数の形と位相(正負の符号)が合うように原子軌道を組み合わせる必要がある。

 金属の中心に原点を持つ直交座標系をとると,金属のs,p,d原子軌道の空間配置は図9-1のようになる。

次に各配位子の配位原子の中心に原点をとり,金属方向をz軸とする直交座標系に対する原子軌道を配置する(図9-5)。

金属と配位子間の結合にはσ結合,π結合の2種類があり,それぞれに用いられる金属と配位子の原子軌道が異なる。
   

 まずσ結合の構築について考える(図9-19-5,および9-6を参照)。

配位子の原子軌道は同等であるので,中心金属の各軌道の対称性に合致するように線形結合でまとめることにする。

これを対称化軌道(SALC,symmetry adapted linear combination)とよぶ。

σ結合に適した配位子軌道はs軌道あるいはpz軌道であるので,配位子の軌道はs,pz軌道の混成軌道と考えてよい。

金属のd軌道のうちでσ結合に適した軌道は結合軸方向に向いたの組の軌道だけであり,の組のは軌道の重なりの正負が相殺してσ結合は生じない。

図9-1において関数の正の位相は配位子L1とL3が配置するX軸方向にあり,負の位相は配位子L2とL4が配置するY軸の方にあるので,に適合する配位子軌道の線形結合は

(9.8)

となる。

関数はZ軸方向に正の位相を持ち,x-y軸平面に負の位相を持つので,に適合する配位子軌道の線形結合は

(9.9)

となる。

ここで括弧の前の係数は軌道を規格化するためにつけた。

 配位子の原子軌道と金属の原子軌道との軌道相互作用により結合性分子軌道と反結合性分子軌道が形成される。

配位子の原子軌道は金属の原子軌道に比べて低いエネルギー位置にあるので,結合性軌道は主に配位子の軌道の性格を,また反結合性軌道は主に金属の軌道の性格を有する。金属の原子軌道はσ性分子軌道を形成できないので,非結合性分子軌道にとどまる。

 金属のs軌道に適合する配位子の分子軌道は,すべての原子軌道関数を同位相で線形結合すればよいので

(9.10)

となる。

一方,金属の3個のp軌道関数に適合する配位子の軌道関数(図9-1の説明参照)はそれぞれ

(9.11)


(9.12)


(9.13)

となる。

配位子軌道と金属のs軌道から結合性と反結合性の分子軌道が形成される。

また (9.11)〜(9.13)式に示した配位子の三つのと金属のp軌道から3重に縮重した結合性と反結合性の分子軌道が形成される。

ここでも配位子軌道は金属の原子軌道に比べて低いエネルギー位置にあるので,錯体の結合性分子軌道は主に配位子の原子軌道の成分から成る分子軌道であり,反結合性分子軌道は主に金属の原子軌道の成分から成る分子軌道である。

以上のようにしてできるσ型分子軌道のうち,結合性軌道を図9-6に示した。

またこのようにしてできる分子軌道のエネルギー準位を図9-7に示した。

配位子由来の12個の電子は下からの6個の分子軌道におさまる。

金属由来の電子は軌道と軌道に入るが,どの軌道まで満たすかはd電子の数による。たとえばでは軌道に1個だけ,高スピンでは軌道に3個と軌道に2個,低スピンのでは軌道に6個の電子が入る。

このことから明らかなように,分子軌道法による間のエネルギー差は配位子場理論におけるに対応している。

金属と配位子の相互作用が強ければ結合性分子軌道のエネルギー準位が下がり,対応する反結合性軌道の準位が上がるのでのギャップが大きくなる。配位子場理論における強い場の配位子とは金属との相互作用が強い配位子のことといえる。

配位子場理論において,金属のd電子と配位子の電子の反発相互作用により準位が上がるとしたが,この準位は分子軌道法における軌道にあたる。

配位子の点電荷あるいは双極子モデルでは定量的に計算できないの値は精度の高い分子軌道法によって計算できる。

 遷移金属錯体においては,配位子のs-p混成軌道が金属のs,p,d軌道と相互作用してσ性の分子軌道が形成されることを見てきた。

この配位結合において,結合に用いられる電子は主に配位子から来るので,σ‐供与性の結合という。

一方,配位子の軌道は金属の)軌道と組み合わせることが可能であり,π結合性の分子軌道を作る。

π電子供与性の配位子(ハロゲン,酸素,硫黄など)ではπ結合性の軌道(配位原子上に残る孤立電子対に対応)がπ結合に使われる。

これはσ性の結合と同様に,配位子から金属への電子を供与することにより形成される結合である。

π電子受容性の配位子(CO,CN−,オレフィンなど)では配位子内の反結合性軌道に対し,金属が電子を供与することによる結合性相互作用がある。

電子の流れが逆であるので,逆供与という(図9-8)。
   

 正八面体錯体の場合,逆供与に用いられる遷移金属の軌道はσ性配位に関し非結合性のである。

金属カルボニル化合物では,カルボニル配位子の炭素原子が棒の先端のように金属に(end-on)配位するので,金属の軌道と形態,対称性が合致する配位子軌道は炭素原子のp軌道中でC≡O三重結合に関し反結合性の軌道である(図9-8)。

たとえばの場合,0価のクロムはd6電子構造であり,各カルボニル配位子から2個ずつの電子が提供されるので,クロム‐カルボニル配位子間のσ結合により軌道まで電子が充填している。

しかしながら一酸化炭素配位子のσ結合性は弱いので,0価のクロムに対し安定なカルボニル錯体が形成されにくい。

軌道と軌道が相互作用する結果,クロムのd電子の一部がカルボニル配位子に移行されπ性の結合が生ずるとCr‐CO間の結合が強化される。

ツァイゼ塩のようなオレフィン錯体の場合はオレフィン配位子が金属に横向き(side-on)に配位するので,金属の軌道と合致する配位子の軌道はC=C二重結合に関し反結合性の軌道であるが,やはりオレフィン錯体の安定性に及ぼす影響が大きい(図9-8)。