3.d電子の関係する現象と性質

(1)錯体の色

遷移金属錯体には色のついているものが多い。(パターン9-16,9-17,9-18)(ムービー9-6

化合物の色は,分子軌道中の電子が上の準位へ励起することに伴って可視光が吸収されるためである。

正八面体錯体イオンの中心イオンはであり,1個の3d電子が軌道を占めている。白色光があたると,この電子は軌道に励起される。

配位子場分裂の大きさに対応する軌道のエネルギー差は20300 cm-1であり,492 nmに吸収極大のある吸収スペクトルを持つ。この結果紫色に見えることになる(口絵のカラーサークル参照)。

d軌道(この場合HOMO)から上のd軌道(この場合LUMO)への電子の励起(d‐d遷移)に対応するのでこの種のスペクトルをd‐dスペクトルとよぶ(図9-9)。

電子数が複数になると吸収線の帰属はこのように簡単にできないが,考え方の基本は同様である。 

 3d電子が6個あるイオンの錯体は,配位子の違いにより種々の色を示す。

たとえば(青色),(金褐色),(淡黄色)などであるが,これらの錯体イオンのスペクトルは2個の吸収極大を持つ。

これらの吸収もやはりd軌道の性質が大きい軌道の間の遷移によるので,d‐dスペクトルに分類される。

配位子により色が違うのは,配位子場の大きさにより配位子場分裂のエネルギーが異なるからであるが,2本の吸収線を分子軌道間のエネルギー差に定量的に帰属するのはのスペクトルほど単純でない。

 一般に,金属錯体においては金属の種類,酸化状態,配位子の種類,数,配位構造などにより分子軌道のエネルギー準位が異なるので,吸収される光の波長が異なり,種々の色を呈することになる。

(2)錯体の磁性

 遷移金属錯体が不対電子を持つと,少なくとも1個の電子スピンによる磁気モーメントが打ち消されずに残るので常磁性を示す。

不対電子がない錯体は反磁性である。

d電子数が奇数個であれば必ず不対電子を持つが,偶数個でも全部のd軌道が詰まっているd10の場合を除いては平行スピンを複数個持って常磁性になることがある。

不対電子のスピンのみに基づく磁気モーメントは不対電子数nと以下の関係にあることが理論的に導かれているので,錯体の磁化率の測定により不対電子の数を定めることができる。

(9.14)


ここではボーア磁子とよばれる磁気モーメントの単位()である。

 常磁性物質は磁石により引きつけられ,反磁性物質は反発される。

この原理を用いて化合物の磁化率を測定する装置が磁気天秤である。

錯体の磁化率を磁気天秤により測定し,式(9.14)の関係を用いると,同じd電子数でも不対電子の数が多い高スピン錯体と少ない低スピン錯体とを区別することができる。

たとえばは6個のd電子を持つので,配位子場の弱い正八面体錯体では配置をとり,4個の不対電子を持つ。

一方,配位子場の強い場合は配置となり,不対電子を持たない反磁性錯体となる。

したがって,常磁性磁化率を示すものが高スピン錯体であり,反磁性磁化率を示すものが低スピン錯体であることがただちに明らかになる。


(3)スピンクロスオーバー

 配位子場分裂の大きさがPの値と同程度の場合,低スピン状態と高スピン状態がほとんど同じエネルギーになることが考えられる。

二状態間のエネルギー差が錯体の置かれた温度の熱エネルギーに近いと,低温では低スピン状態であり,温度を上昇させると電子の熱励起により高スピン状態になる。

この現象をスピンクロスオーバーとよぶ。熱エネルギーは100Kで約70cm-1 ,300Kで約200cm-1 であるので,配位子場分裂が50〜250cm-1 程であると,このような磁気的挙動を示す()。

一つの例として,3個のキレート硫黄配位子が八面体配位した錯体であるFe3+ジエチルジチオカルバマト錯体をとりあげる(図9-10)。 

はイオンであるので(低スピン)から(高スピン)へ転移する。低スピン状態は高スピン状態より数100cm-1 低い。

低温では有効磁化率は低スピン状態の値〜2.l に近づき,温度が上昇すると高スピン状態の占有率が高まり,平均磁化率は図9-11のように変化していくが,すべての錯体分子を熱励起できないので,純粋な高スピン状態の値〜5.9には到達しない。

似たような配位子でも,(キサントゲン酸イオン)に変えると,が熱エネルギーの10倍にもなるので,熱励起がほとんど起こらず低スピン状態にとどまる。

また(ピロリジナト)であるとが小さいので,温度に無関係に高スピン状態になる。
 

 X線単結晶構造解析によりの構造の温度依存性を調べると,Fe‐S距離が79Kでは2.306Åであるが297Kでは2.357Åに伸びることがわかるのでの結合半径は低スピン状態の方が小さいことになる。

磁化率の測定と結晶構造解析を組み合わせることにより,スピン状態の変化が錯体の構造に及ぼす効果,すなわちd電子による錯体の立体構造の制御機構が明らかにされる。