5.d電子のかかわる物質系の例

(1)ヘモグロビン(パターン9-19,9-20)(ムービー9-7

 遷移金属イオンを含む多くの生体物質があるが,ヘモグロビン(図9-15)が古くからよく知られている。

この化合物はグロビン蛋白質に鉄のポルフィリン錯体(ヘム鉄)(図9-16)が4個結合したものであり,血液中にあって肺から体の組織に酸素を運搬する。

ヘム鉄の鉄イオンは,ポルフィリンの4個の窒素原子と,グロビン蛋白質ポリペプチド鎖末端のイミダゾール窒素が配位する,5配位高スピンであるが,酸素分子が配位すると6配位低スピンになる。

d電子のスピン状態が高スピンから低スピンに変わることにより,鉄イオンがポルフィリン環の中心に引き込まれるので,この分子レベルの動きがイミダゾール基を通してヘモグロビン全体の構造を変化させ,他の3個のヘム鉄の酸素分子に対する親和性を高める。

すなわち,d電子の電子構造が酸素分子の取り込みと放出を制御するのである。

生体系の研究結果をふまえ,鉄ポルフィリン錯体を含む人工血液の開発も試みられているが,実用にはなっていない。

ヘモグロビンは2個のα鎖と2個のβ鎖の4個のサブユニットから成っている。それぞれのサブユニットに1個のヘム(網点の部分)が配位している。

図9‐5の網点の部分を拡大した。

(2)ウィルキンソン触媒(パターン9-21) 

 ロジウムのトリフェニルホスフィン錯体(図9-17)はオレフィン類の水素化触媒としてよく知られ,発見者にちなんでウィルキンソン触媒とよばれる。

この化合物には1価のロジウムが含まれるので,d電子数が8個のd8錯体である。

溶液中でこの錯体にオレフィンと水素ガスが接触すると,オレフィンが配位した6配位d6水素化物が生成して,この錯体を経由してオレフィンが水素化され飽和炭化水素になる。

したがって,ロジウムに対する反応物配位活性化と選択的反応はd電子の数により制御される。

一般にこの種の均一系触媒反応は,金属種と酸化状態および配位子により定まる,錯体のd電子数と配位構造により制御されるので,d電子の役割が非常に大きい。

遷移金属錯体は,研究室における選択的有機合成反応に広く使用されているばかりでなく,均一系触媒として,高分子合成や光学活性化合物の合成などに工業的規模で用いられている

(3)高温超伝導体(パターン9-22,9-23

 超伝導現象の発見(1911年)後,多くの超伝導物質が見出されたが,超伝導転移温度が23K以上のものはなかった。

1986年に合成された銅酸化物超伝導体は,超伝導の転移温度を大幅に更新した画期的化合物である。

その代表的化合物であるは95K以下で超伝導になる。

この化合物中のイットリウムを3価,バリウムを2価,酸素を-2価に数えると,銅は2価(d9)が2個と3価(d8)が1個の混合原子価状態になる。

化合物全体の骨格は銅のまわりに4個の酸素が平面状に配位した部分と,四角錐状に配位した部分から成り,この間にイットリウムとバリウムが配置される(図9-18)。

酸素量が不定比での組成を持つ種々の化合物も合成され,超伝導転移温度が酸素量に依存することから,銅のd電子数と超伝導の機構の関連について盛んな研究が行われている。

高温超伝導体がもたらす革新的技術も,d電子の挙動次第ということになる。

おわりに

 この章で述べたd電子系の電子構造は非常に単純化したモデルに基づくものであり,本格的取り扱いのためには,さらに高度で広範囲の知識を要する。

d電子を含む遷移金属は多くの電子を持っているので,スペクトル,磁性,結合,反応などの高精度の量子化学的計算は簡単ではない。

しかしながら,単純な概念にもかかわらず,化学者にとって非常に有用であるので,急速に発展している錯体化学や有機金属化学を学習したり研究するための基礎として充分に理解していただきたい。


練習問題

問9‐1.正八面体錯体の配位子場理論における軌道と分子軌道法における軌道が対応する理由を考察せよ。

問9‐2.の色は無色であるのはなぜか。

問9‐3.の磁化率を求めよ。