4.バイオミメティック アプローチ
(1)生体反応情報の利用
錯体触媒に用いられる低原子価錯体は自然界に類例の少ない化合物群である.
一方,生物は自然界に微量に存在する遷移元素を含む金属酵素を用いて,常温常圧において化学反応を制御し,種々の化合物を合成したり分解したりして,生命を円滑に維持している(第12回).
生体関連反応の情報を利用すれば,自然界には存在しない触媒を用いて重要化合物を常温常圧で合成出来る可能性がある.
こうした考えに基づいて新しい合成法を見出す試みを,生体をまねた合成法─バイオミメティックアプローチ−─と呼ぶ.
これには前回及び今回学んだ内容を総合して,新しい反応を見出す研究が必要である.
(2)生体に学ぶ窒素固定
生体は大気中の窒素分子を直接体内に取り入れることはできない.
動物は植物の含む含窒素有機化合物を摂取するが,植物は海水中や土壌中に含まれるアンモニアや硝酸イオンなどの無機窒素化合物を吸収し,これを原料として含窒素有機化合物を合成している.
地球表面において窒素は図13-6のように循環しているが,大気中の凡分子が海水や土壌中に入る自然経路は限られている.
雷の放電により窒素酸化物が生まれ,それが雨水に溶けて地表に達するのと(全体の十数%),植物のもつ酵素の作用でアンモニアが生まれ,水溶液としておもに土壌中に存在する(約70%)かどちらかである.
人工的合成によって窒素がアンモニアに変えられ,肥料や工業製品の原料に用いられるのも無視できない量にのぼる(十数%).
工業的に窒素を固定する方法は20世紀の初めドイツのハーバーとボッシュによって発明された.
鉄化合物を主成分とする固体触媒を用い,窒素と水素の混合気体を数百度,数百気圧の条件下で反応させアンモニアを得る.
一方,豆科植物や藍藻類に含まれるある種のバクテリヤは常温常圧において,窒素と水からアンモニアを合成している.
この時働く酵素はニ卜ロゲナーゼと呼ばれるが,その構造はまだ不明である.
しかしモリブデンと鉄を含む分子量20万程度の複合タン白質が有効成分と考えられている.
このタン白質の補酵素はモリブデン・鉄および硫黄を含む多核錯体であろうと推定される.
この構造を明らかにし,触媒反応機構を解明するための研究も進められているが,この事実を参考にして,自然の生んだ酵素よりさらに優れた人工触媒を発見しようという研究も盛んである.
人間は物質界を造っている元素の全貌をかなり把握しているから,生物が利用しなかった元素も対象にして新触媒の発見に成功すれば自然の酵素を上回る合成方法も夢ではない.
このように研究はまだ完成してはいないが,種々の試みがなされている.(映像)
この試みに用いられた夕ングステン触媒の例を図13-7に示す.
窒素分子2個が0価のタングステン原子に配位しており,他にリンの誘導体も配位している.この化合物を酸で処理するとアンモニアを与え,また同時にヒドラジンNH2NH2も生成する.
夕ングステンは海水中にはごく微量しか存在せず,生体に不可欠な元素とは見なされていない.
しかし周期表ではモリブデンと同族で,性質にも類似点が多い.将来夕ングステン錯体が重要な窒素固定触媒となるかもしれない.
資料提供 東京大学工学部教授 干鯛 真信
分子科学研究所助教授 磯逼 清