2.カラーフィルムの量子化学(パターン8-18,8-19,8-20,8-21,8-22,8-23,8-24,8-25,8-26

パターン8-278-288-29)(ムービー8-5

(1)カラーフィルムの構造

 人間の目の網膜のように,カメラの中で風景や人物などの被写体を映像としてとらえるセンサーがカラーフィルムである。

最近では,新しいセンサーとして半導体技術に基づいて開発されたCCD(charge coupled device)とよばれる固体撮像素子が開発され,それを搭載したデジタルスチルカメラが登場し,新たな領域が開拓された。

しかし,カラーフィルムとカメラは性能と価格でデジタルスチルカメラより格段に優っており,その使われ方は今後も変わらないと考えられている。

カラーフィルムによって,世界中で1年間に700億ショット(1996年)もの写真が撮影されており,毎年数%の割合で増えている。

 カラーフィルムでは,色素が光の3原色である青,緑,赤色の光(口絵参照)を吸収してカラーフィルムを感光させ,感光した部分でそれらの補色の色素が形成される。

このように,カラーフィルムでは種々の波長の光を吸収する色素を用いており,それらの色素の設計と開発に量子化学が重要な役割を果たしている。

 図8−6はカラーネガフィルムの感光層の断面の走査型電子顕微鏡写真である。

白い粒がハロゲン化銀粒子であり,感光層はハロゲン化銀粒子を懸濁したゼラチン水溶液(写真乳剤とよばれる)がフィルムベース上に塗布され,乾燥されたものである。

感光層は,青,緑,および赤色の光に感ずる層からなり,各々の層は高い感度,中程度の感度,低い感度の層からなり,全体で14もの異なる機能の層が20μmの厚さで塗られている。

これらの層の効果が組み合わされると,あらゆる色の,しかも弱い光から強い光の像を写すことができる。

 青,緑,赤色光に感ずる層のハロゲン化銀粒子には,それらの色の光を吸収して粒子に電子を注入する増感色素が吸着している。

このような増感色素の作用は分光増感とよばれている。

上記の各層には,現像の際に感光した部分にそれぞれ黄色,マゼンタ,およびシアンの色素を形成する化合物が含まれている。

 以下には,上記のような増感色素の設計と開発に対する量子化学の応用の概要を紹介する。

(2)ハロゲン化銀粒子と分光増感

 図8-7は代表的なハロゲン化銀粒子の電子顕微鏡写真である。(パターン8-18

結晶は面心立方構造であり,表面に(100)面を持つ立方体の粒子,および表面に(111)面を持つ八面休あるいは平板状の粒子などがある。

これらのハロゲン化銀粒子は光を吸収して自由電子を生成し,これを銀イオンと結合させて銀のクラスターを形成して感光する。

この銀のクラスターは最も小さいもので4個の銀原子からなり,潜像中心とよばれている。

 図8-8は光の波長に対する人間の目とハロゲン化銀粒子の感度を示している。

人間の目は,青(400-500nm),緑(500-600nm),および赤(600-700nm)の光に感じる視細胞を持っており,それぞれの細胞が感じた情報を脳で結合してあらゆる色の像を見ることができるようになっている。

一方,ハロゲン化銀粒子は紫外線から青い光までを吸収して感光するが,緑や赤の光には感光しないので,そのままではカラーフィルムを作るのに用いることはできない。

ハロゲン化銀粒子を緑や赤の光に感光させるために用いられる技術が分光増感であり,緑や赤い光を吸収する増感色素を写真乳剤に添加してハロゲン化銀粒子に吸着させ,それらの色素の吸収でハロゲン化銀粒子に潜像中心が形成されるようにする。

 露光したフィルムを現像し,印画紙に焼き付けるとカラープリントが得られる。

すなわち,露光済みのフィルムを現像液(現像主薬とよばれる還元性の化合物の水溶液)に浸すと,潜像中心が触媒となり,潜像中心が表面に生成した粒子のみが現像主薬によって還元されて銀粒子となり,銀のネガ像が生成する。

ハロゲン化銀粒子を還元した現像主薬は酸化体となり,カプラーと反応して色素を形成する。

現像で形成された銀を漂白してハロゲン化銀とし,現像されなかったハロゲン化銀粒子とともに溶かし去ると,色素のネガ像が得られる。

次いで,このネガ像を通して印画紙を露光し現像して,印画紙上に色素のポジ像を得る。

 図8-9には代表的な増感色素であるシアニン色素の分子構造と吸収スペクトルを例示した。

色素分子ではπ電子が共役し,太い線で示したメチン鎖とよばれる部分が二つの限界構造式の間で共鳴していて,これを長くすると吸収波長は大幅に長くなり,吸収係数も大きくなる。

シアニン色素の吸収波長が自由電子モデルによる計算でよく説明できることから,色素の中のπ電子は自由電子に近い運動をしていると考えられる。

(3)増感色素の電子構造

(a)対称性の考察

 本講義では対称性の議論の詳細は一切省略したが,ここで簡単に以下の説明に必要十分な点だけを述べることにする。

分子の形や性質は対称性によって分類できる。

例えば,水分子は図8-10に示したように,H‐O‐Hの2等分線を軸にして180°回転すると元の形と区別できない配置にすることができる。

またこの2等分線を含む分子平面に垂直な面(σv面)に対して水素原子を入れ換える鏡面対称性もある。

このように分子に何らかの操作を行って,元の形と区別できないようにする操作を対称操作という。

分子はその形により,いくつかの共通な対称操作の組み合わせで,通常30個程度のグループに分類できる。この対称性を扱う理論を群論とよぶ。

興味のある学習者は付録の参考文献を参考にしていただきたい。

 形だけでなく,分子の持つエネルギー準位,エネルギー準位間の遷移,反応を含む分子間相互作用など,分子のすべての性質は対称性によって分類され,対称性によって支配されている。

エネルギーの計算も対称性に分類して分割して独立に行える。

(b)ヒュッケル分子軌道法による電子構造の計算

 チアカルボシアニン色素は平面性を保った左右対称の形状であり,水分子と同じグループの対称性を持っている。

原子軌道の数は21個であり,π電子の数は24個である。

この分子のπ電子軌道を計算するには,21個の2p原子軌道関数の線形結合で分子軌道関数を表す。

2p関数は分子平面に反対称(分子平面に対して鏡映操作をすると関数の符号が逆になる)であり,σv面に対しては対称(B1)と反対称(A2)の性質を持つ2p関数の組み合わせの分子軌道ができる。

 これらを解いて得られた電子エネルギー準位を図8-11に示す。

エネルギーの低い軌道から24個のπ電子を詰めると,A2対称性のとB1対称性のがそれぞれHOMOとLUMOの電子エネルギー準位であることがわかる。

 チアカルボシアニン色素の最も長波長の光の吸収はHOMOのからLUMOへの遷移である。

遷移モーメント(遷移を起こす光の電場が変化する方向)分子の長軸方向にあり,遷移エネルギーはのエネルギー差でとなる。

その次に波長が長い光の吸収はB1対称性に属する分子軌道間の遷移であり,遷移モーメントは分子の短軸方向にある。HOMOとLUMOの波動関数を図8-12に模式的に示した。

各原子上の円の面積がそれぞれの分子軌道関数に寄与する2p原子軌道関数の大きさを表し,白い円と黒い円は線形結合の係数の符号が異なることを示している。

太い線で示したメチン鎖の部分が特徴的であり,HOMOでは末端から一つおきに電子密度が高く,LUMOでは末端の次から一つおきに電子密度が高くなっている。

 同様にしてメチン鎖の異なる色素の遷移エネルギーの計算値(:LUMOとHOMOのエネルギー差)と吸収スペクトルが極大となる波長()から求めた実測値()とを比較して図8-13に示した。

両者は極めて良く一致しているので,シアニン色素の電子エネルギー準位はヒュッケル法によって高い信頼性で計算できることがわかる。

(4)分光増感と量子化学

 図8-14に示すように,色素が光を吸収するとHOMOの電子がLUMOに遷移され,次いでハロゲン化銀の伝導帯に移動して分光増感が起こる。

したがって,分光増感の効率()と色素のLUMOの高さは相関することが期待され,色素のLUMOやHOMOの高さを示す実験値が分光増感の研究にとって重要になる。

電気化学的な測定においては,ポーラログラフィーで求められる色素の還元電位と酸化電位がそれぞれLUMOとHOMOの高さを示す。

すなわち,電極の電位を負の方向に変化させて行くと電極表面の色素のLUMOへの電子の注入による電流値が増加し,色素の電極表面への拡散が律速となる電位で一定となる。

還元電位は,電極表面の半数の色素のLUMOに電子が注入された電位として定義されている。

一方,電極の電位を正の方向に変化させて行くと電極表面の色素のHOMOの電子を奪うことによる電流値が増加し,同様にして電極表面の半数の色素のHOMOから電子を奪った電位として酸化電位が求められる。

 実際に図8-15に見られるように,ヒュッケル法で計算した色素のHOMOの高さが酸化電位と,また色素のLUMOの高さが還元電位と良い直線関係にあることが明らかになった。

このようにして,色素のはそれぞれ色素のLUMOとHOMOの高さを示す実験値として用いることができることが確認され,分光増感の研究に広く用いられるようになった。

 図8-16には立方体の臭化銀粒子を含む写真乳剤に対する種々のシアニン色素のをそれらのに対して目盛って示した。

(したがって,LUMOの高さ)にはしきい値があり,がしきい値より卑の(すなわち,LUMOがしきい値より高い)色素のはほぼ1であるが,がしきい値より貴となるにつれて(すなわち,LUMOがしきい値より低くなるにつれて)色素のは減少する。

ここでLUMOの高さのしきい値は,臭化銀の伝導帯の底の高さに等しいと考えられる。

 このようにして量子化学を活用することにより,分光増感の効率が増感色素のLUMOの高さで決定されることがわかり,また色素のLUMOとHOMOの高さを示す実験値としてそれぞれ色素の還元電位と酸化電位が有用であることがわかり,増感色素の分子構造の設計や色素の使用技術の開発が容易になった。