翻訳こぼれ話
昨年『ランジェ公爵夫人』を訳していたときに、あるラジオ番組でしゃべったことなので、二番煎じの話題なのですが。フランス語には、二種類の二人称がある。つまり、近しい相手に向けていうtu と距離感や敬意をともなう vous の使い分けがありますね。
ナポレオン軍で勇名を馳せた無骨な将軍に、この上なく高貴な身分の社交界の花形が、華麗な恋愛ゲームを仕掛けるという話。このような男女は、おたがいにvousを使って話すというのが、大原則。ところが、ときたま、ふとtuに移行する。その絶妙なタイミングとニュアンスを、どうやったら、日本語に反映させることができるのか。
はじめての試みですが、二人称ではなく、女性の一人称を微妙に変奏してみました。なぜって、貴婦人が将軍に「おまえさん」とか「あんた」とか、いえるわけないでしょう? それに、です。遠い昔のフランスで、しかも隔絶した世界に住む貴婦人なのだから、となり近所の奥さんや大学の同僚と同じ調子で会話をやってもらっては困る。語彙も、リズムも、イントネーションも、すこし気取って大仰で、芝居がかった感じにしてみよう。というわけで――冷酷な女心に深く傷つけられた将軍が、復讐を誓い、ランジェ公爵夫人を誘拐する場面――ヒロインはこんなふうに開き直ります。
「そうですわ、まるでどこかの浮かれ女を訪問するかのように、敬意もなく、愛の気遣いもなく、わたくしのところにやってきた。わたくしにも考える権利はございましょう? ですから、わたくし、考えました。あなたの不作法は、赦してさしあげられますわ。愛ゆえのことですもの。そう信じさせてください、あなたは間違ってはいないと考えたいのです。そう、アルマン、今宵あなたがわたくしの不幸を予告なさった瞬間に、わたくしはふたりが幸福になれると信じておりました。わたくしは、あなたがいくどとなくお示しくださった、この気高く誇り高いご気性を信頼しておりました……。そうよ、だから、あたしは、あなたのものだった」と彼女はモンリヴォーのほうにかがみこんで、耳元でささやいた。
さすが男性心理の襞を知りぬいた公爵夫人。男が自室に女を幽閉するなどということは、愛していなければやれることではない。そう、高を括っているのですね。台詞の最後に注目してください。気位の高い女が、つと男にすりよって、いきなりtuで呼びかける。ぞくっとしませんか? これが「あたし」という人称の工夫です。