「共和国」という、この困難なもの(その1)

大学院科目を制作するということは、あらたな研究の視点を模索することにほかなりません―なんて、切口上で語りはじめましたけれど。「異文化の交流と共存」というオムニバス形式の教材を企画しています。15回の講義のうち5回を担当しますが、なかに「政教分離と共和国」と題した講義があり、この文章は、その副産物のようなもの。

1989年、パリ郊外のクレイユの中学校で、スカーフを着用したムスリムの女子生徒に、校長が教室に入ることを禁じるという出来事がありました―現代フランスに詳しい人にとっては、これはまた、ずいぶんとありきたりな導入かもしれませんね。そんなことにはお構いなく話をつづければ、2003~2004年に「スカーフ問題の再燃」と呼べる現象がありました。

このときは、ジャック・シラク大統領のもとで、研究者、官僚、法律家、政治家、NPO職員などによる「諮問委員会」が招集され、その報告書が2003年12月に提出され、その結果を受けて2004年3月に「公立学校におけるこれ見よがしな宗教的シンボル着用の禁止法」なる法律が採択されました。禁止の根拠となる概念が、「政教分離」という訳語を当てた「ライシテ」です。

諮問委員会の代表の名をとって「スタジ報告書」と呼ばれる文書は、以下のサイトでPDF版をダウンロードすることができます。
Commission de réflexion sur l'application du principe de laïcité dans la République

それにしても、スカーフをしたら教室に入れない、という話、わたしたちには実感がわきません。その違和感と、もやもやした疑問を大切にすることが、学びつづけるエネルギーになるのだと思います。というわけで、なぜ「宗教的シンボル」を排除するのでしょう?

「ライシテ」とは―「フランス共和国vs.イスラーム」の問題である以前に―「フランス共和国vs.カトリック教会」の問題でした。また「排除」されるのは、あくまでも「公的な空間」からであって、「信仰の自由」はプライヴェートな空間で保障すればよいというのが「ライシテ」の理論構成です。さらに「公的空間」というのは、とりわけ初等・中等の「国民教育」の現場でありました。

「ライシテ原則の適用」をめぐる諮問委員会が招集されたときの大統領の書簡には、議論の出発点となるべき共通了解が、以下のように記されています(「スタジ報告書」の冒頭ページ)。

フランスはライックな共和国である。我々の憲法が公に定めたこの原則は、長い歴史的伝統に基づいている。この原則が採択されたのは、公権力の中立性を保障し、信仰の自由を尊重するためである。この原則は、教会と国家の分離を定めた1905年12月9日の法律により、我々の社会体制のなかに深く根づいている。

「ライック」は「非宗教的」と訳されることが多いのですが、「ライシテ」の形容詞。片仮名表記にします。問われているのは、「スカーフがいいか悪いか」ではなくて、「ライックな共和国」とは何か、その定義とアイデンティティなのですね。

もうひとつのポイントは、「教会と国家の分離を定めた1905年12月9日の法律」の背景にある事情です。大革命から1世紀、フランスは動乱と政変をくり返し、1870年には隣国プロイセンとの戦争であっさり敗退します。安定した「国民国家」を建設するためには、いかなる決断が必要か。その答えが、カトリック教会と訣別し、「ライックな共和国」となることでした。その決断がいかに重く劇的なものであったのか。これもわたしたちには、実感がわきません。

グローバリゼイションやEUの拡大という抗いがたい波がおしよせている。そのなかで今、「共和国」はいかにして可能なのか? その切迫した問いかけが、21世紀の幕開けを、第三共和政の礎が築かれた1世紀前という時代にむすびつけ、今、1905年の法律が、あらためて脚光を浴びている―たしかにこれは、熱気の感じられる研究テーマ。面白い出版物、活発な議論が見られます。

EUといえば、トルコの「スカーフ問題」も目が離せません。今年の2月、イスラーム色の強い政権与党の主導で、大学におけるスカーフ着用を認める憲法改正が行われ、これに対して6月5日、憲法裁判所が、この憲法改正を違憲とする判決を下しました。野党と軍を支持基盤とする「世俗主義」勢力の巻き返しが、当面、効を奏したということです。EUは、これを歓迎するか、というと、ニュース解説によれば、話はそう単純ではないらしい。軍の介入を嫌うという理由は想像がつきますが。

トルコには「世俗主義vs.民主主義」という図式化も可能な対立―これも「国家vs.宗教」の構図のひとつだろうと思うのですけれど――があるらしい。そして与党であるイスラーム勢力は「民主主義」(個人の自由)の名のもとに、まさに「民主的」な議会政治の手続きによって「世俗主義」(共和国原理としての政教分離)の拘束を緩め、いずれはイスラーム国家として堂々とEUの加盟を果たしたいと考えている。少なくともこれが、アブドゥラー・ギュル大統領の方針だそうです。当面アメリカは「民主主義」のほうに荷担するのでしょうね。

頭がこんぐらがりません? トルコでは1980年代に、知識人階級の女性たちが、イスラーム回帰のシンボルとして主体的にスカーフを着用するようになりました。だから「大学」が事件の舞台になるわけです。禁止令が出たのは1989年で、フランスの「スカーフ事件」と同じ年です。じつは慣例によって「世俗主義」と訳しているトルコ語は「ライクリッキ」―コンセプトそのものが、フランス・モデルの「空間的な排除」なのですね。

ちなみに、プロテスタント系の国家では、この「空間的な排除」や「公的な空間」と「私的な空間」の使い分けという発想はありません。ドイツの公教育には、宗教教育が組み込まれていますし、ましてやイギリスの場合、エリザベス女王は「信仰の擁護者」であり、一個の身体的な存在として、国家と国教会との結びつきを体現しています。

現代のアメリカでは? 個人の信仰はプライヴェートな事柄、公的な問題ではない、と主張できるのであれば、大統領選に出馬したバラック・オバマ候補がライト牧師の過激な発言に悩まされることはないはずです。信仰生活の指導者である親しい牧師が、大統領に政治的な影響をおよぼすことが想定されている、それが自然なことと認められているからこそ、支持率の数字にはねかえったりするのでしょう。

さて本日は唐突に、ここでストップ。何を考えているかというと、フランスの文化番組France cultureで、アルベール・ジャカールという科学者が、環境とか、人類の未来とか、人種差別とか、現代的なトピックについて、かなりハイ・レヴェルな話題を提供しています。これが1回3分ぐらい。

おそらくウェブ上でも、訪問した人がひとつのサイトに3分とどまれば、上等でしょうね。ブログ感覚で、数分で読めるけど、問題提起としては、マジメそのもの。これを週1回のゼミのつもりで3回やってみます。

 

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