書かなければ読めるようにはなりません

卒業の季節になりました。いつものことながら、あっという間だったなぁ、という感慨があります。学部の卒業研究はわずか数カ月、修士過程でも2年のお付き合いですから、ひとりひとりの歩みをじっくりと見守る余裕はありません。それでも、生涯学習を志す人たちとふれ合う醍醐味は特別のもの。ひと言でいえば、教育の原点に立つ歓び、ということになるでしょうか。

いろいろな学生さんがいます。唖然とするほどの読書家も、言葉を使うことは慣れているメディア関係の人も、論文を書くためには、やはり別の思考法、別の文体を求められる。コピーライターの人に、コピーライターみたいな文章は書かないで下さい、なんて不躾なこといっても、相手はオトナだから、ちゃんと意図を汲んでくださるようです。だいいち、そういう話は例外中の例外で、10人のうち9人は、長い文章を書くのは生まれて初めて、専門書は手にとったこともない、というところからスタートするのです。

わたしはミッション系の女子大、研究者養成機関でもある国立大学、そして放送大学、とそれぞれに特徴ある環境に身をおいてきたのですが、教育の手応えという意味で、率直に面白いのは、やはり生涯学習機関でしょうね。とにかくスタートの地点とゴールの地点では、本人のパワーが違う。

パワーというのは、たとえば文章力。さらに重要なのは、書かれたものを読む力。自分で書かなければ読めるようにはなりませんよ、というのは、わたしが放送大学の学生さんたちを励ますときによくいう言葉なのですが、裏を返せば、書いてみると、ほら、読めるようになるでしょう? という問いかけです。

映画好きの人は、文章を書いたことで「映画が見える」ようになったといいますし、多くの人が、霧が晴れたようにすっきりと「本が読める」ようになった、と述懐します。文章力と読解力が相乗効果で高まってゆくような回路を自分のなかに作ること。これを「知性のパワーアップ」と呼ぶことにしましょう。論文を書きおえた人が、ますます本気になって、生涯学習への意欲を高めていれば、わたしは教師冥利につきる、というわけです。

書けば読めるようになる、というのは、じつは、わたし自身の実感でもあります。教員としてのわたしは40代の後半に教養課程のカリキュラム改革に携わり、つづいて大学院重点化というドラマに遭遇しました。専門は○○です、とかいって、フランスの作家の名を挙げて涼しい顔をしていられる境遇ではなかったのです。文学以外の領域について謙虚に学ぶ、ともかく読んだことのない種類の本を読む、そのために何かを書いてみる、という20年来の習慣を、この先もずっと守ってゆきたいと思います。

そうしたわけで、ケベックとか社会学や政治学の研究書とか、この3カ月ほど「新大陸」でいささか途方に暮れておりました。そろそろ予備の学習は一段落。少しは読んだり書いたりのパワーが身についた、語彙が使えるようになったという気がします。次なる課題は「ライシテ」の基本書を1冊翻訳出版することですね。

ところで「ライシテ」と「文学」は、わたしにとって「二本立て」ではありますが、これらのテーマも相乗効果、お互いを刺激し合っているのです。「カトリック」を知ることでフロベールの宗教性や反教権主義が見えてくる。プルーストは「共和国」の作家であり、その小説には「ライックな感性」が読みとれる。。。

 

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